//世界を覆う医療化//

medical monarch

『医療化』とは、どのような現象か?

 定義としては進藤 雄三 氏によるものがあり、以下に挙げておくと、
   従来、他の社会領域――宗教、司法、教育、家族など――に属すとされた社会現象が、
  次第に医療現象として再定義化される過程。
とされる。具体事象として授業例を取り上げると、「同性愛」は前近代では宗教上の罪として捉えられていたが、1869年にハンガリーの一医師がこれを病気の一つとして提唱、1952年には米国の精神医学会が公的にも病気の一種として定義した(但しこれは1973年に削除された)、というものがある。何が正常/異常なのかの裁量権を、市民ではなく医師たちに手渡した状態と言えるかもしれない。
 医療化することは、医療が個々人の主体から離れ去って行く過程を伴う場合もある。ここでの主体化された医療とは、1;セルフ・ケア(自己治癒)、2;セルフ・ヘルプ(同病者連合/外圧への共同抵抗)、に二分される。医療化と関わる理由として、大衆構造が成熟し専門家(この場合は医師)の意見をも疑うようになってきたこと、国家予算削減要請の解決策としての医療費削減(→病気の個人責任化にも繋がりかねない)、加えて疾病構造の[感染症主体]から[成人病系列主体]へのシフトが考えられる。
 だが、主体化と言ってもその医療行為の方法論は中央のものと同じ構成でできているので、ここでの治癒の対象は“程度が軽い"ものでしかないこと&本質的な意味での主体化(そんなものがあるとして、だが)は起こらないので福祉国家/治療国家/管理国家への変質を許すこと、また最小治療単位が個人となるために、社会的な疾病発生構造が見落とされることになり易いこと、も問題を形成する。
 また“医療"という一種の超法規的事態を背景に、個人に関する医療データを一括管理しようという動きも『医療化』の流れと言われる(医療の情報化)。そのほうがカルテ分散が起こり難いこと、患者の生理的医学的な歴史が読めたほうが診断を付け易くなること、などのメリットをもつ反面、生全体(空間、時間、対象の全面にわたって)の管理が進んでしまう、又得られたデータの管理可能性(データの再構成による新情報の生成まで食い止められるものか?)が不安定である、といったかなり深刻な問題群を抱える。

 ここまでが説明である。何れにしろ医学の発展と共に、慢性型の疾病や精神状態の変化と、様々な生活シチュエーションが関連づけられて行くことは明白なので、医療化の流れは避けようがない、とも言えそうである。医学が巨大化した背景には、誰がどう評価しようとも、確実に自然科学の肥大が原因しているのだから。


『医療化』の評価

 定義を妥当なものと見做し、且つ、社会現象と医療現象の相互乗り入れのポイントは精神病関係である、との補足をするならば、であるが、この例示の若干の問題点として当時のアメリカ社会情勢――権力装置の一つとして精神病院/精神科医が用いられていた――を過剰拡大しているきらいがあると思われる点である。当時の流行は電気ショック療法にロボトミー手術であり、“精神外科"(“Psychosurgery",Freeman & Watts,1942)と称される、現代では時期尚早であると見られる『脳手術による自由な性格の創造』=現代のそれよりも一歩踏み込んだ唯脳論がまじめに論ぜられていた時代であった(現代の“骨相学"であった、と信じたい)。I.イリイチ等の著書を初めとする反医療化の運動によって、戦後すぐの医療化第一派は脱医療化の方向で決着を見た、と言えよう。
 寧ろこの概念は現代によって語られるべきである。例えば、

1:アンドリアセン等の著作『故障した脳』――精神分裂病に対する脳神経外科的な解決方策を、現在の深層心理療法に取って代わらせることの重要性を謳ったもの――などの精神科アプローチ方法の変化を示す動き、

2:『脳の十年』『欧州脳の十年』『Human Frontier Science Program(この計画では、脳を A;知る、B;守る、C;造る、とされていて、C;は今のところ失敗と見做されている人工知能計画の再建も目されている)』というブレイン・サイエンスと心の問題の急接近(大枠で捉えるなら、既にスタートした『ヒトゲノム計画』もカウントされよう)、

3:日本に例を絞っても(実は先程の“H.F.S.P."も国内だが)、理工系離れを元気よく弾き返しているバイ・テク人気に伴った“唯脳論"(養老 孟司 氏)の系統の文化に人気があるということ、

4:脳死論議では、脳の死が人の死である=脳が心であり、心が脳であるという言説を(在野の知識人はべつとしても)ほぼ鵜呑みとしている、それだけ支配的な概念となりつつあること、

等、現在になって曾ての“精神外科”的な動きが再燃しつつあるのは明解過ぎるほど明白である。これらへの一言説をもつことができる理論の一つに『医療化』があるように思えてならない。

 また、医療の情報化の方は、別段“医療化"でなくとも起こり得る現象ではないだろうか?
 確かに、最も個人に影響を与えそうな情報を操作するのが医療の情報化であろうことは納得出来るので、その点は問題にすべきだろうが、“情報の統合"に伴う危険性は何処にでも転がっている。『国民総背番号制』などが立ち消えしたのも、これに敏感に気がついた市民が多かったからであろう。
 『医療化』に問題があるとすれば、それは個人の自由意思(が無いと見做すならば、問題は一切起こらない)を自然科学的手法で固定/矮小化する点であろう。こうして何が人間の行動上“正常"であるかを決定されてしまうと、そこには『自分以外のものによって管理され、定義され切った自己』しか存在し得なくなる


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