//「食料経済学演習」課題//

<或いは「ドロップ・アウト」の現代的な意味。課題をマンマ掲載。>

 この小論では『非経済的な理由での農業の保護』の理由に対し、おなじみの常套句である『食料安全保障』説だけではなく『労働を効用として把握する、社会厚生を高める働きを持ち得る』事を検証している。この為、小論に対する「賛成の立場」「反対の立場」とは即ち、労働を効用と把える可能性を「見いだすか」「否か」を意味するはずだと考える。

 これは2月の第一週、丁度私の発表担当分の時間を大幅に裂いて議論された泉川氏の提唱に直結する議論でもあり、当時を懐かしく思い出す次第だが、私のこの意見に対する姿勢は実のところは分裂している。労働の“全て"が効用に変わるべきだとの姿勢に対しては、あの時間の持論と同様に即時反対したい(あの後で泉川氏と散々議論しあったのだが、『不効用な労働』は生きるのに必要なもの以外では全て捨て去ること、生きるのに必要な『不効用な労働』『本来的は効用ある労働』なので『不効用』を感じる事自体その個人の誤りである、との前提を彼が持つことが、彼の主張の根底にあった事を了解し、価値観相違で論議は終了した)が、本小論のようなレヴェルでの『効用ある労働』の存在可能性を説かれた場合には、「控えめながら」賛意を表したい。


 スイスでの名士経済人のための会席上で、現ソニー社長が語った言葉に『資本主義の最大の敵は、市場原理主義である』との、その後で各所で引き合いに出されることとなった名言がある。十分な経済力と優秀な人員の揃った大企業の戯れ言と揶揄するのは簡単だが、本小論で挙げられていた『人間にとって貨幣価値のみが唯一の価値ではない(本文101頁11行目)』はJ.S.ミルの「幸福定量」から現在のいかなる心理学であれ“幸福”の定量化に成功した例はないことから見ても明白であることと、『労働生活の〜破綻する(本文110頁7行目→10行目)』の数理的矛盾を私は見いだせなかったこと(余談だが、ここでどうしても『常に』、数学の不得手な私は経済学の壁に突き当たり歯噛みせざるを得ない。心底憎悪さえ抱くほど悔しい)、そして労働の不効用の代償として強大な生産力を背景にした高度情報資本主義が確定した米国でさえ、近年の『好況下での人員削減』が見られることなどから判断して、やはり私は言葉の重みを認めたい。

 この言葉に重みを見いだすということは、極論で換言するなら『労働を消費財生産の為の単なる手段に引き下げ(本文110頁5行目)』ないこと、競争市場メカニズム自体にビルトインされたこの構造を否定する事で、資本主義=『経済』の無視を意味する。これが厳密に施行されれば、個人にとって現状の消費生活を維持できる生産基盤を捨てるだけの覚悟を要求し、長期的には国家集団の競争力を引き下げ、『食えない』という戦後日本の問題を再燃させるだけの社会破壊力を持つ。腹蔵なしに言ってしまえば『危険思想』である。勿論この小論の筆者は『経済』の存在=財を巡る希少性の問題を無視してはおらず、そうした問題を無視した「有機農法」「小規模複合経営」賛同者達の無責任な放言に警告さえ発しているが、この論者自身も『労働の効用』『労働生産力』とのトレード・オフをどのように決定するのかについて何かしらの解答を用意していない点で、無責任な賛同者達との差はそう大きくはない。恐らくこの緊張関係の解決を理論的に行える論者など何処にも存在できまいが。(そしてこのトレード・オフが可能だとの幻想を民衆に振りまけたからこそ、マルクス経済学があれほどまでに熱狂的に支持され、現代ではその幻想性が明らかになったからこそ、ここまで支持者を減らしたのだろうと私は考えている――いや、感じているだけに過ぎないのか? 実際には、数理的論理力に疎い者は広義の『判断力』すら持てないのではないのか?――)


 ゆえにこの言葉の重みを感じ取り実行する場合は、常に厳密ではない実行とならざるを得ない。だからこの実験的体制には『個人』で参画するよりほか無いのだが、現代社会の内部でこれを実行する場合まさに社会に保護されない「ドロップ・アウトした個人」を生み出す。これを社会が保護することは上記の理由(誰にも『効用』『生産力』のトレード・オフが不可能である上、実際には絶えざる労働効率の上昇≒労働効用の不効用化によってのみ、競争に勝て明日の食を得られる構造が変えようがない)によって社会には不可能であるし、現実には「ドロップ・アウト」したはずのその個人でさえ、一部では生存のために何かしら不効用な労働に参画するのが通例である(『無名時代の芸術家の行動』を想起すれば十分であろう)。

 ただ本論でも述べられていたように、こうした個人も先進国では『食えない』事にはなりづらく、実際には新車を買えない、結婚に支障が生じるなどの弊害で済むことも見逃せまい(極めて不平等な現実ではあるが)。社会の十分なインフラやコモンズやストックを背景にすれば、不可能な在り方ではないのだ。ここにこそ『市場原理主義』=行動の全てにおいて市場を意識する思想、を無視する『隙』が生まれる。本論ではその『隙』に農業を埋め込もうとする意図だった訳だが、先進国くらいは『効用ある労働』を行うべきだとも考える私には魅力的な選択肢として把えられる。その程度の意味においてなら労働の効用を認めたいと願うのだ。


 この他、かつて一度も訪れたことのない『食料安全保障』危機論理の甘さを詰めることでも農業保護論理を問い直せ、それと同程度の効力を求めての『労働効用説』を援用するという方法論も本論に考えられるひとつの方向性だと考えるが、文字数の関係により割愛し本論を終わる。



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