linda ss2 "解除反応"

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 もう何日もなるのだろう。
 もはやハンター稼業ではなくなった夫の勤務先は、規則と時間にこそ厳格なレンジャー隊の勤務だ。
 だというのに、夫は無断で欠勤し続けている。

 深夜の深酒で朦朧とした夫の禿頭に、少しだけ嫌悪感を覚える。
 膨大な灰皿の吸い殻。散らかり放題の夫の寝室。
 この人は一体何から逃げ続けているのだろう。少しだけ、それが何なのかを私は知っている。
 でも怖さが先行して、その答えを夫の前では言い出せずにいる。
 僅かに出来ることは無言で掃除機をかけて、この寝室にありきたりだが暖かい空間を取り戻す事。
「……うるせ……」
「……あら、起こしてしまったわね。でももう朝なのよ?」
「うるせぇ……、どうせお前のような雌犬はその辺で腰でも振ってたんだろぉが」
 酷い言い草。しかし、私は夫の為の演技なら厭わない。私自身の安全のためにも。
「そんな馬鹿みたいなこと言ってないで、御飯出来てるわよ」務めて日常的な声で。笑顔で。
 ベッドからにらみを効かせ続ける夫を尻目に、私はごみ箱を抱えて一旦部屋を出ようとする。

 ――突然、後ろから手が伸びて私は肩をつかまれた。
「何よ」恐怖を覚えながらも、声は震わせなかった自信がある。しかし其処に居たのは、
「なぁ、」涙目の夫だった。正気に返ったのかと思い、思わず抱きしめたくなる。
「なぁ?本当に愛してくれるよなぁ? ……本当に俺の事好きなんだよなぁ……?」
「今更なに言ってるのよ。嫌いならリンダは生まれなかったでしょ」駄目だ、涙声になる。
「なら、今すぐネオケニア中の男どもの首を持ってきやがれ!」
 しばし、なにが起きたのか理解できない。
 思いっきり肩を引き摺られ、私はその場の床に叩きつけられたらしい。
 ……衝撃で吐き気がした。
 なんとか立ち直って夫を見据えると、夫は不敵にも笑っていた。
「でも俺様は優しいからなぁ、しょうがないからお前の昔の恋人の心臓で許してやるよ」
 何も言う気になれなかった。なんにも。夫は、夫を返してください。神様夫を返して下さい。
「どうした? 早く持ってきやがれ!」
 夫は何処に消えたんだろう。今なにか喚いている男は本当は関係ない人間かも知れない。
 けれど、寝室の横にあるスタンドには、確かに目前の男と私との写真が写っていた。
 写真にある彼は笑っていた。笑っていたのだ。それが悲しくて目を伏せたら。
「出来ないんだろ? 無理なんだろ!?」
 蹴られた。背中が、足が、脇腹が、周期的に痛む。血が乱れて目の前が白黒した。 
「俺の事なんて好きになれる女なんか居ねえんだよ、心を開いた俺様が馬鹿だっただけだ」
 更にのしかかられる。強引に抱かれる。繰り返し突かれる。
 私は何でここに居るんだろう? 何でこんな目にあっているんだろう? 嫌、嫌、こんなの嫌。
 何度も何度も意識を失いそうになるが、その度に襲う激痛がそれを許さない。
「私は……好きだから、貴方といるんじゃないの……」助かる為には何でも良かった。
「嘘つきぁがれッ!」彼の膝が私の肺の下を思い切りえぐり、私は吐いた。
 彼はそれで立ち上がった。顔中を涙と怒りで赤黒く濡らしながら指差す。
「じゃあ、なんっでリンダの肌の色はあんなに白いんだッ!」
 痛みとショックでぼうっとした頭で彼を見上げる。
 彼が指差す先には、わあわあ泣きじゃくるあの子がいた。

 あの子はこんな修羅場を見るべきではない。しかし夫は暫くこんな体たらくのままだろう。
 私は自分自身でも信じられない程の意志力で、自らを強引に立ち直らせた。
「……ビースチャン族の特徴なのよ……遺伝子の強弱の影響で、私に似」平手が飛んだ。
「ヘッ、普段は無能でどうしようもない癖に、こんな時だけ屁理屈が回りやがるのかよ」
「嘘じゃないわよ! お医者様にでも聞くがいいわ!」口の中を切っていたが、気にならない。
「じゃ、それを証明しやがれ!」
「そんな事出来るわけないでしょう!」
「じゃあ、」殴り飛ばされた。「証明する方法から見つけて来いや!」
「そうするわ! 其処の本棚に行かせて頂戴」
 彼は残忍にニヤニヤしながら、本棚を持ち上げてしまった。
「どうした? テメエの言葉すら証明できねぇのかよ? だから駄目なんだお前は」
「……どうしたって自分の子供であると理解できないのね。余程自分に自信がないんだわ」
 言ってはいけなかった台詞。この場を説明する、夫の逃げている対象。
 口に出してから失敗に気が付いたが、私にはもうどうしようもなかったのだ。
「……一々全くうるセェんだよ、この腐れアマがぁ!!」
 かつて腕力で生態系を根こそぎ変えたという彼が渾身の力を込め、私に本棚を投げた。
 本棚は、私の脚を、文字通り刈り取った。

「あーあー世話ねぇなぁ。その足はもう使い物になんねぇ、いいザマだな」
 私には、もう何も言えなかった。
「可愛そうなアン。こんな男を騙し続けてたから、罰として足を失いました、ヒャヒャヒャ、ヒャ、ヘーヘーヘー、え、エヘヘヘヘ」
 動こうと思えば動けたのかもしれないが、私はただその場に倒れていた。
「ヘヘヘ。ヘヘ、ヘヘヘヘ、ヒーヒー、ひ。ひヒヒひひ……馬鹿が……ヒヒヒヒヒヒヒ」
 ただ……全てが哀しかった。もうどうにでもなればいい。

「!!」
 彼が突然、レンジャー隊でするような直立不動の姿勢をとる。
 私は、霞んだ視界でそれを他人事のように見ていた。
 彼はそのまま、私に土下座をしたのだ。
「すいません、俺が悪いんです、俺がみんな悪いです、俺なんかと知り合ってしまったあなたが本当に可哀想です、あなたはもっと幸せになれたはずの人なんです、俺があなたを不幸にしてるんです、あなたはもっと別の人と暖かい思いをすべきなんです、なのに俺はあなたに傷をつけてしまいました、ごめんなさい、ごめんなさいっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ほんとにごめんなさい、本当に御免なさい、ほんっとうにごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ご……あ、ああああああああああああ!」
 彼はここまでの犠牲と共に、正気を取り返しでもしたのだろうか?
 けれど、どの言葉も、私にはもう入ってこなかった。
「本当は判ってるんだ。お前はそんな奴じゃない。悪いのは俺の心だ、俺の心が俺を呪いにかけてるんだ、俺がこんなに幸せな筈がないと呪われてるんだ、幸せなとこに居ると体中がムズムズするんだ、こんなの嘘っぱちだって細胞いっこいっこが疼くんだ、なあアン、俺はなんで幸せになれないんだ? なんでよりにもよって自分自身で幸せを壊すんだ?」
 何もかも、全てなるようになればいい。私は石になりたい。
「アン、アン、ごめんよアン、お前にはなんて……なんて言えばいいんだ……」
 号泣する、夫。間違いなく夫は今ここにいた。でも遅過ぎた。
 私はただ、もう直ぐ失われる筈の私の意識の最期に、夢を見られればいいと願った。
「……そんな」
 私は無言で彼を見つめる。ただ、私が愛し、私を損なった男を見ていた。
「……いいのか?」
 彼の様子がおかしい事には気が付いたが、これは夢だからどうでも良いのだ。
「俺は今おかしいんだ、そんな事を言われたら本当にそうするかもしれないぞ」
 全てどうでもいい。彼の幻影を見られたのだから。
 それにしても、彼は誰と話しているのだろうか?
 そして闇が来た。




「……本当に済まねぇな。ごめんよ、アン」
「これでいいのよ、ヒューム」
「ずっと一緒に居ような……ずうっと此処に居てくれよ……」
「勿論よ、私達は何処までも一つなのよ」


 エモリ医師による手術が完成したその日より、アンの精巧な“人形”がヒューム家に購入された。
 そして、ヒュームは2度と公衆の面前でその胸を見せることをしなくなった。





03/16/00



後書。

 「解除反応」とは心理学用語で『不快な体験のため抑圧されて意識の表面に出なかったものが、薬品の作用などによって、突然、言語や行為の形で現われること』(by“本棚”)のことを指すんだけど、ヒュームが本編で何故壊れたのか、壊れざるを得なかったのかを類推したのがこのSS。

 ……時間にルーズで非常に酒にもだらしない彼に、多分こっちの世界の公務員と同じようなモノの筈のレンジャー隊などが勤まる筈はない。それに、いつも戦闘態勢で狩猟生活を送っていた人間が、突然『幸せな家庭』などで安寧の日々を送れるはずもない。もしそんなものを手に入れようとしたら、多分彼は『昔の生活』という種類の不快な体験を思い出し、現在の生活に「解除反応」を出してしまうだろう、という読みを考えた時にもうこのSSのプロットは組み上がっていた。要所要所のセリフだけを先に書き出し、あとからその状況説明を付加するだけでよかった。カンタンだった。

 『緊急事態』なる限界状況に触れてしまった人間が帰ってくるのは、実はとてもとても難しいことなのだ。限界状況自体の作り出す凄まじい困難と苦しみを乗り切るだけでもシンドイが、ほんとうに怖いのはそれを乗り越えてしまったら自分が元の「優しい」「優柔不断な」「無意識的な」ふつうの人間ではなくなってしまうことにある。『幸福な状況』から、自分から逃げ出してしまうような精神構造を持つ人間は結構身近に多いが、彼らが何故そうするかは純粋に「怖い」からだ。世界の幸福を受け取る事が出来なくなる呪いを身に纏ってしまうのは、それを受け取ることがあまりに望まれていながら永劫に得られなかった為に、それが得られないという状況にこそ適応しているため、自我構造が大きく揺らいで壊れてしまうからだ。大昔の日本で行なわれていた差別形態の一つ「河原者」概念は、このような呪いを受けてしまうだろう人間を固定することで、集団の精神病理を安定化させる目標があったのかもとも思う(許される話ではないが)。

 SSでアンがヒュームに語った最後の言葉は、単にヒュームの都合のいい妄想と捉えてもアンの自我防衛線を越えたところにある本心と捉えても結構ですぅ。……でもリンダって、アンが人形になってもゼンゼン気がつかなかったという結論になってしまうな……(汗) でもサチコの昆虫人間性だってケンは見抜けなかったワケだし、まぁいいか。

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