子供達の言説というのは、とてもじゃないがマトモに聞けない。特に思春期中の子供の意見は。
『大人』の身には痛過ぎるからだ。まともに聞いてしまったら死んでしまう。何故なら……
関わるもの全てに根付くことなく、「無意味」に戯れた時代。
――自分の実存を疑って狂わない為に世界に意味を見出す時、実は世界に騙されている。
「自分の可能性」などというものを無邪気に信じていられた時代。
――可能性がひとつに選ばれぬく時、そこには小さな死が訪れている。
現実の幸福はどれも保留付き、制限アリのものだと見抜けた時代。
――心身症から自分を解放する為「現実も悪くない」と捉えた時、現実に呑まれている。
どれも信じずに値するものでない時、全て拒否する事も出来た時代。
――その日の糧を得る作業を楽にする為に何かにすがった時、我々から天使の羽が消える。
我々の可能性は、残念ながら現代では我々の死を要求する。
――類稀な可能性を引き当てていない限り。我々の多くはそんなもの得てないだろう?
世界に飲まれた人達は、自分の動作原理を忘れて、最も大切なものをも見失って、互いに下らない事で本気で戦えさえする人形に成り下がる。このことが世界の子供達の共通言語「汚い大人」と言われるものの真意なんだろう。でも、大人はまさに生存を果たすことで周囲へ彼の責任を果たす為だけにそうしているのだ。子供達は、生きること自体から超越するという選択肢を与えられているからこそ、そのような超越した立場にあぐらをかけるのである。可能性の無くなった瞬間に、何の責任もなく彼らは消え去れるのだから。かないっこない。
誰でも一度はそうするように、僕も僕がどうなってでも関係ないといったレベルで可能性に賭けた時代があった。その過程で幸福な幾つかのしがらみに捕らわれてから、可能性の方を自分で閉ざしたという、自分としてはかなり上出来な軟着陸を果たすことが出来た。もしもこのしがらみを知らなかったら、またこのしがらみを自分で無価値にしてしまっていたら……。恐らく、ここにこうして本文を書き続けている自分の肉体は存在していなかっただろう。
だが確かに誰でも最期には消えてしまう。『死』は、いかなる小さな安定を前にしても必ずや勝利するのだ。とすれば、こんな幸福自体がそもそも無価値で意味がないことなのだろうか? 肉体に固執しているからこそ見る夢に過ぎないのだろうか? 最後には裏切られることが確実な幸に酔う僕を見て、永遠に消えないであろう何らかの『可能性』を信じている筈の小さな天使は、大声で嗤っているだろうか?
その天使の後ろにいるのは、まさしく『種』の意識だ。個人の大量の犠牲を出しても、別に種としては痛くも痒くもないはずだからだ。却ってそんな風にしてでも可能性に火をつけたほうが
種としては美味しい筈なのだ。多くの、
弱い者虐めなり
病者への差別なり
美醜を原因とした差別なり
精神病に対する攻撃なりは、どれをとっても全て『種』の意識を媒介にすれば直ぐに理解できる。また、子供時代にこそこんな意識が多かったのもここから意識できるだろう。そう、
彼らはまだ人間ではないのだ。人間側の利害を全く考えずに、誰かに操られたかのように生命を消費してしまうのだ。……そんな意見を聞けば、死んでしまうのも当然だ。
『種』の意識という自分たちに埋め込まれた呪いと戦う一方で、『体温』の慈しみのほんとうの暖かさもまだ子供は知らない筈だ。特に他者の体温を護ろうとする事は、これ以上ないぐらいの至福感を与える。体温を「永遠」に持ち込む術は無いのだとしても、コレに酔いしれることは出来る。
体温を天に嫉妬させてやる。「可能性」という種類の呪いに人が打ち克つには、この手しかない筈だから。