//解放への階段//
rezon d'etre
僕は未だ、1日3食の食事を摂って良いという根拠を自分に見い出せていないし、このことを閾域下に置こうとする力を引き摺り上げて意識化することも捨てていない。僕には拒食症の人々の精神を異常であるとは思えない。性や睡眠はともかく、食は絶対に罪だと22歳の今になっても未だ思っているので。理由はカンタンで、何かの犠牲なしには食事は出来ないから。犠牲は意識ある動物だけではなく、植物も土壌も、そして他の人間もが対象に入ってくるのが真実の姿だと考える。というわけで、『人類が』食を摂っても良い理由も常に思考の片隅にちらついているし、その人類の中でも『僕が』(僕以外から)食を掠め盗っても良い理由も考えてしまう。加えて生物には免疫系が在るから、他者の殺生を一切行わないという規律は絶対に守れない。だから僕は上記に加え、存在し続けている(食を摂らないでも)事で起きる殺生の責任も感じている。
よく言われるように、この明確な理由が無くただ勝者が許されるだけだ、っていう形の言い方は我慢ならない。そこで選ばれる基準(勝者=何らかの基準を設けた上での最上位者)が、どんなものを選んても恣意的でキモチワルイのを知っているからだ。
とりたてて社会に貢献できる能力を殆んど持たない人間が生きようとする場合で、更に相対が圧力を造るのも、絶対が専制を産むのも、自然が筋肉と性のルールを強要するのも、どれも気に食わない場合、僕らはどんな方法で解放されるのか? 何れにせよ、人口と欲望との相乗効果による軋轢から永遠に逃げられないのなら、荒れたい奴等に社会を任せて自分は社会的に死ぬこと、誰かにぶらさがって生き続ける寄生虫になることが正解なのか? それとも社会的に死んだところで食を得なければ生きられない偽善を認め、本当に死ぬしかないのか? それとも外に向けている仮面通り(そうしなければ、精神分裂病とされてしまうから)こういう意識を抑圧して、無邪気に周囲を圧力で、能力で、暴力で、殺すことを暗黙裏に認めるしかないのか?
それともどうせ周囲を合法的に殺すことでしか食べる事を許されないなら、あからさまに55億人殺して世界の問題を根底的に安定させる手法を何としても実現する革命者になるか。誰からも、恐らく自分からさえも望まれない人間になれば、少なくとも俺の分裂は収まるが、もし、これを選びそうなら……、実行する前に逝くけど。