//福音主義//
evangelism
同情と憐憫の内側で、可能性と望みを絶つ暴挙。『残酷は、優しさの中に』
そして、先行きが悪いデータしか無い、絶望しか許さない真理。『真実は痛み』
ダミープラグを造れてしまうほどの、客観科学で定義され終わった人の心理が紡ぎ出せるのは、せいぜいが決められた枠内の自由意志だけ。そんなものが『閉じた終息』を迎えているのは明白のこと。だから『現存する人々に、生きる意味は在るのか?』。そのままでは無いという事から『逃げちゃ駄目だ』が、『死ぬのは嫌』。
では『僕はココにいてもいいんだ!』と言うために『何を願うの?』
『気持ち悪い』と自分を拒絶しさえする外界を持ち込みつつ和解すれば良いわけだ。即ち、誰も思いつかなかったような史上初の感性を持つこと。それで『私のこと好き?』を固定し、他者由来の価値に頼らない状況を永続させる。それから世界を開けば良い。実存?
(福音主義=evangelism)
これってつまりEVAについて、当時書いた内容をそのまんま張っただけ。僕も恥知らずなもんだ。
ポストモダニスト達の極みにいるヲタクな人々の内側で堂々と「絶対主義」を掲げたEVAは、やはり怪物だったと述懐している。差異とコピーとリミックスに満ちた、ホンモノの高度情報資本主義社会の最先端から「絶対」「宗教」を謳いあげるのは冒険だったに違いない。
若し貴方がネットニューズか何かで、完全に停止した筈のこのアニメーションについての討論を始めようとすると、恐らく「精神病理説」やら何やらを援用した一方的な攻撃(フレーム)が巻き起こり、貴方のアカウントは消滅寸前まで追い込まれるだろう。80年代以前からの伝統的なヲタク層からの攻撃が集中するのは、前述の背景を踏まえての事だけにある種の「必然」である。何でもアリの文化の筈だった場所で、あまりにも大きな否定を行なったのだから。相対主義は、「相対主義を否定するもの」だけを否定する(簡単なルールだよね)。
その一方で、コレを熱狂的に信じぬく人々も同様に存在する。90年式のインテリオタク(=「電波系」以降?)に多いとされる支持者は、ネットなど公共の場所では多くの場合瞬殺されてしまうのだが――彼らは大抵の場合、自己表現の言語がまだ拙い(ヒトのコト言えないけど……)――、隅々まで相対主義化された日常を送っている90’sには有り得る態度だと僕なんかは考えてしまう。
一方で自由を喧伝されるとともに実際には可能な選択肢など限られている為に、自分の存在価値についてのひやりとするような諦観が蔓延し、他方でVXガスや砒素やナイフや不況が日常の場で撒き散らされ、生命の危機を掻き立てられ続ける。宗教の出番となっても不思議ではないが、あからさまな宗教は嫌う……。こうした層が、絶対に存在することを僕は何処かで確信している。
もはや、相対主義のパラダイスは永久に去ったかも知れないのだ。その時、僕を含めたEVAを忌避するものが笑い続けられるか、時代だけが知ることになるんだろう。意地でも笑い続けてやりたいけど。