個人的には『パラダイム』よりも奥が深くて面白いと思っている『エピステーメ』という単語がある。フーコーの哲学的単語の一つだが(設問3で概要は掴める筈と思いますぅ)、『パラダイム』との違いは『時代の思考の枠組』そのものまで言及するか否かであるような把握をしてる。ちうわけでこの前提条件が受け入れられないものだった場合、本文がイジョーに読み難いものになるかとは思いつつ、このまま例によって課題再利用をしようかと。
設問3; 古典主義エピステーメーから近代エピステーメーへの転換期の思想を整理せよ。
古典主義時代は、頻繁に言われるような『狂気』だとか『進化する前の理性』だとかを持った、言い換えれば近代から見て他者の文明ではなく、フーコーによれば表象(Re−Presentation)の時代である。この根拠は当時の学問領域に貫徹された思考方式=“エピステーメー”に特徴が見られることである。この時代のエピステーメーをはっきりと記述し切ると別の課題となるのでここでは深く突かないが、大まかに言えば、言葉の役割が物の世界の正確な表象(=再現)であるような言葉の認識の下で全ての論理の表(タブロー、『理解』を可能にする“秩序"と同義)が生成された場合に浮かび上がるのが古典主義時代である、ということである。これを可能にしていたのは、秩序認識の方法を《マテシス(普遍数学)》《タクシノミア(分類学)》による視線で行うことで、物に対して『滑らかな、中性化された、忠実な語で書き写すこと』が可能であるという認識が前提にあったからである。
これに対して近代エピステーメーは、古典主義時代のようには語を信頼しない。その代わりに語それ自体を分析の対象に出来る利点を持つ。具体的には、思考形式の条件がそれまでのものと変わる……曾ては一般的秩序付けの空間であった条件が様々な組織体からなるものへ、<秩序>が支配的だった条件が<歴史>へ、相互関連をもっていたものが独在的に、と変わることになり、表(タブロー)は不可能になる。古典主義との比較を用いないで言い換えれば、<力学>が特権化されるということである。この結果『知』が扱える領域が、表象の時代までは(控えめにも賢く)顕現されたものだけしか扱わなかったのに対し、「要素」「起源」までをも捉らえるものになることになった(次の設問で解答するが、要素や起源と言ったものには根拠が薄いことに気づく)。
このように捉えられる古典主義エピステーメーと近代エピステーメーであるが、この観点をもって本文中で分析された境界例(転換期の思想)がある。生物、労働、言語の学問がおこした変質を追うのである。
博物学と生物学の場合から見ていこう。博物学は古典主義エピステーメーに分類されるべきだが、その理由は分類の手法に可視的、表層的な「特徴」を使っていたからである。この状況に変化が見られたのはジョシユ・ラマルク・ダジール以降のことであるが、彼らが始めたのは「組織」による分類であったといえる。
先ず最初には、生殖が生物には不可欠な要因であるという理由から「一次的(=本質的)な特徴」を『胚』に求めるようになる。それまで支配的だったおしべの着生位置など可視的なものは「二次的で亜定常的」という位置にまで後退し、特徴自体の有無のみを基準とした要素抽出方法が排除されていく。この段階で既に非−表層的な状況を予見出来る。
次に、上記の理由から「特徴は機能に結び付く」との視野が広がり、その結果機能のうえで重要なものへと観察が集中する事態になる(ここで注意しなければならないことは、多数の観察によってその構造が頻出するようになったからその特徴が重要になった、ということではないことである)。この繰返しで共通特性は重要と見なされ、上位カテゴリーに分類されることとなる。
これらの方法の帰着先は、シュトールの“蹄の提言”となる……栄養摂取方法・移動形態・消化器官との関わりを持つから、哺乳類は蹄で分類しようというのである!これは、古典主義の表象からの決別が鮮明に現れている部位であると言えよう。ルネッサンス期の復古ともとれる『埋もれた深層のほうへその切っ先を向けた記号』が“組織"という整合的総体であり、可視のものも不可視のものも捉えようという目標を持つことがこうして許されるわけである。
この“組織"の変質ゆえに、『分類と名称体系の平行線は失われる』。“内的法則"に基づく種属の区分は名前と乖離する(「組織」の空間と、“良き"名称体系の空間の歪み、と本文中では触れられている)。それまでと異なり、分類の方法にも価値=根拠が存在するようになるのである。『人々は、語以外の空間に《場》を持つ物について語りはじめるのだ』。これは既に完全に近代エピステーメーの特質である。尤も分類学(タクシノミア)はここでは未だ可能性の基本条件を否定されていず、博物学の本領内にいまだ存在しているとも言えるために「生物学」には至っていないとも言えるが、それでも「有機的なもの」と「無機的なもの」の区別についての生気論的な結論を帰結をもたらした点で、「生物学」への萌芽を見いだすことが出来るのは確実である。
次に、「富の分析」が「経済学」になる過程を見ることにする。
アダム・スミスが新規に行なったとされる分析(富の概念に労働という尺度を入れる)は、実際にはカンティヨン、ケネー、コンディヤックという前例を持つものに過ぎなかった。言い換えれば<秩序>の時代、表象のエピステーメーの時代と同等の分類法を持っているに過ぎないことになる。ではフーコーが注目した彼独自のものは何か。
労働概念それ自体ではない。それまでは『交換を必要に帰着するための契機』としても捉え得る概念だった「労働」に、『還元不可能で越えることの出来ない絶対計量単位』としての役割だけを負わせたのがそれだ、とフーコーは言う。これで『等価性』は、『商品自体の価値』から浮遊し『生産に要した労働単位数』で決定されることとなるのである。(労働尺度説の反駁には、多分フーコーが提出したもの以上のものがあるだろうのでここでは割愛する)こうして「経済学者にとっては、物の形態で流通しているのは一定量の労働なのだ。もはや必要の対象が互いに表象しあうのではなく、変形され、隠され、忘れられた時間と労力があるに過ぎない」という事態を招くこととなる。
これにより、表象(富、品物、欲望)に還元されない「それらとは根本的に異質なものを通じて」決定されると見做されるようになる。故に一方で『人間と時間との関係、人間の有限性、死の切迫』と、直接には人間に必要ではないものへの日々の時間と労力の投入といった「人間学(自己に対して外的なものとなった人間の分析)」への指向性を持ち、他方ではもはや『富の分析』ではなく『労働と資本の形態』を対象とする「経済学(人間の意識の外側にあるメカニズムを問題とする)」への指向性をもつことのなるのである。この分析の方法には既に表象のエピステーメーは見当たらない。そればかりか、それらがやがて単なる心理学に還元されることも、近代エピステーメーの次にくる歴史の片鱗も、おおよそ理解可能になる筈である。
規定枚数を越えると思われるので『言語』に対しての分析の後追いはしないことにするが、上記の生物/経済の部分だけでも表象のエピステーメーと近代エピステーメーの明確な違いを捉えることが出来る。あくまで見たままを中心に分析する表象のエピステーメーとは異なり、その論理が『本当に自然の内奥に/経済の原理に達するものであるかどうか』は棚上げしてもそうした論理(そして客観の存在を基盤にする)があると仮構し、説明原理とするのが近代エピステーメーである。
設問7;『現代』エピステーメーとは何か。
これは難題である。しかも私は比文生でも人文生でもないしそれ故に哲学専攻ではない。そして、フーコーがいみじくも『近代のエピステーメーが何であったかを知ることは、近代に住む我々には基本的に無理がある』と発言したように、現代に住む私達の誰もがこの設問に優等生的な回答を寄せることなど不可能である。しかし、それでもなおこれを回答したいと思わせるほどに、この設問には絶対的な魔力がある。私は、素直にそれに負けることにしてみた。
フーコーが手掛かりにした『生物学、経済学、言語学』は、現代では一体なにに変質していると言えるだろうか。これを読み解くことが出来れば、この難題にも解決例程度は提出できそうである。
生物学の領域では、遺伝子の発見とその改竄による大幅な混乱をみたが、これらはフーコーで言うところの近代エピステーメーを超えるものではない。何故なら手法にはあいもかわらずの客観的な観察視点を持ち続けているし、その説明原理は実に容易く崩れ去るものであることは、私の所属する学類の授業を1つでも受講するだけで解る。あえて言えば、一部では古典主義の表象エピステーメーさえ復権(表の復活、取り敢えずの間だけの分類等)している!なぜなら、生物を構成する物質はあまりにも複雑で、なおかつその作動原理や作動経路が割れているものはあまりにも少ないからである。
他にも臓器移植技術や“生態系"概念の出現などが、フーコーの時代と変わっていてなおかつトピック的であるのだが、近代エピステーメーを超えるものは残念ながら存在しない。それらも全て観察者の客観的視点が中心に論理が進むからである。
ここで真に取り上げるべきは、お決まりではあるが脳神経科学の領域であろう。既にかなり有名になりつつあるが、脳を分析する時点で観察者が自身を見ることになるために『客観』の立場は危うくゆらめくからだ。その状態で論理を進めるために、科学者たちは血の目を見るほど複雑な理論を編み出し適用しようとする(オートポイエシス理論、ハイパーサイクル等)が、この過程で近代エピステーメーを何れにせよ捨て去ることになるのは明白である。
労働の分析はどうなるのであろうか。マルクス経済学だけで国を興したところは大幅な経済的立ち遅れを見てしまっている現在ではあるが、それらは官僚的手法として現存しているとも考えられるのもまた現在であるので、一概に経済学の終焉を見る訳にもいかない。学問的な変化を私は認めない(細分化や精緻化には非常なる変化があったと思うが、近代エピステーメーを超えたものは見かけない)が、もしも変質を認めるなら、それまで生物学との連環は失われて久しかった筈の経済学に環境問題との絡みが出て来たことである。炭素税などはその真骨頂といえる……生物学が問題の所在を明らかにした後に、それを解決する手法に経済学を用いるからだ。確かに、どちらも『人間の意識の外側にあるメカニズムを問題とする』点では一致していたが、フーコーの時代にはこれらは独在的であるとされていただけに、エピステーメーの性質の変化を期待出来そうである。
労働の学が生み出したとされている『人間学』はどうなっているのだろうか?深層心理学は現在では下火にさえなっている(カウンセラーという職業を世に生み出したのは功だろうと思うが、学問的にはその手法は段々脳神経科学の分野へと移行しつつある)。ここは寧ろ生物学との関連を言うべきかもしれない……というのは、現代では『人間の終焉』的な空気を漏らしているのは生物学と人間学の融合領域である気がしてならないからだ。理由は、そこでは常に人間の意志ごしに話が展開するからだ。ヒトにこれこれという薬剤を投与すればここの性格が変容する、ヒトはこれこれという状況に陥ればこのように行動する率が高い、といった具合に。ただしこれは(何故か!)確固たる客観が存在する点で、近代エピステーメーを越えないともとれる。
文献学が現在どのように変質しているかを、知識があまりにも欠けるために私は語る口を持たないが、以上のように現代が近代エピステーメーを越えるであろう瞬間を捉えて来た訳である。だが、先にも触れたとおりここで現代エピステーメーの本質を纏める無謀さを敢えて無視するとすれば、本質はたった一つであるように思う。
今回提出した現代のエピステーメーは、どれも生物学の影響を受けているように見えた。それは私が生物資源学類であり、全てをそちらへと関連づけて解釈しているからであるという反論もあるのだとは思うし、そうした場合私には対応策がない。しかし妥当であれば、現代エピステーメーは生物学を抜きに語ることを許されないと考える。そしてなかでも、脳神経科学こそが『人間の終焉』を左右する時代である、ということである。
『客観』を脳神経科学が解体させれば、再び『人間』は知の基本的な配置の基礎を担うことになろう。この場合はフーコーの危惧(汎学の人間学化)が顕在することになるだろうが、新種の人間学がどのような性質を持つかは見当もつかない(少なくとも、考えられているような単純な全世界の相対主義による思想制圧、といった趣は見せない筈だ。フッサール的な新種の『主観』の成立を意味するからである)。そして、現状の動きを追う以上では、こちらで解決されてゆく気配が濃厚であると考えている。
近代エピステーメーは、実はその論理の内部に大きな穴がある。『客観』の存在で事物を分析するのは古典主義エピステーメーの場合でも同じであり、違うのは『内在論理』を認めるか否かであるとも言い換え可能なのだ。そしてその『内在論理』は、多くの場合は根拠に欠ける。授業の例で言えば『生殖が生物の第一次的な特徴である』と何故わかっているのかと問えば、それが恣意的なものであるとさえ言えることに気づく。私(資源)の体験例では、生物学の実験でのアズキゾウムシの存在の分布がランダム(ポアソン分布を示す)であると瞬時に結論できるのは何故か、に正確に答え得た教官は存在しなかった、等である。このように、客観と言っても実のところ相当な『集団恣意』が紛れ込んでいることを看破するのには大して骨がかからない。そういう状況なので、現代エピステーメーがこの不完全な『客観』を真っ先にどうにかするだろうことは予想がつく。
しかしそうはならなかった場合、『客観』の方がもしも脳神経科学を制圧したら、そしてそれが学問として成功したら。
フーコーの『人間の終焉』の予言は、現代では思いの外拡大されて実行されるかもしれない。