いつも、いつでも、いつだって、うっすらとした不快感を感じ続けていた。
いつからか、人はたとえ完璧であろうとも完璧であるという理由で非難の対象となるだろうという事や、生存への単なるラット・レースが殆どの人の人生の本質である事や、「ささやかな幸せ」などというものは傲慢な罠である事や、誰かの得は即ち誰かの損失だという事を叩き込まれたことや、ホルモンに、徹底的に不当にがんじがらめにされている人間像を意識したという事や、とにかく普通の何気ない人生を送り続けるにはやや破壊的に過ぎる様々な事柄に気づいた頃、それらがうっすらとした不快感の原因かとも思ったときもあった。
でもそれらはあとで改善可能なものだとも思ってもいた。完全性がない人間も、ある瞬間は本当に完全に愛されるときがある。ラット・レースを敢えて避けて生きようとした人々の数の方が、ひょっとしたら多いのかもしれない。人間存在がホルモンに規定されていようとも、其処には自由意思の微かなきらめきがたしかに在る。それなら、小市民的なささやかな幸せなどという捉え方は甘いというだけのことになる――無いのではなく。
このように、本当は人生の楽しみをほじくり出すことなんかカンタンなのだ。日々を眠るように過ごし、ささやかな楽しみをそちこちで見つけること、毎日を感謝とともに立ち、優しさを常に隣に従えること。それが出来るのであれば実行さえすれば良い。だが、全ての呪いは自分の心の内側にこそ存在するのだ。そのような人生を肯定できず、今まで戦ってきた全ての限界状況が再現されるなら……天国は自分自身で閉ざされてしまうだろう。限界を見出して其処から戻れるかは、自分で選べば良い。
この頁に取り上げた様々な知的な呪いは、全て自分が嘗て苦しんだもので構成されている。それゆえに多分、僕自身が最もきつい。こんな様々な次元の世界の事情など、読める必要なんか無かったのかもしれない。精神的なタフさが眠たさ等で欠け、生活のなかでコレが噴出するとき、冷く冴えて澄み切った絶対の哀しさに完全に支配されまるで幽霊みたいな人格になってしまうか、或いは怒り狂って異常なまでの敵意を燃やすか、のどちらかがまず確実に来る。そんな時、僕はここへ昔書いたレポートや手記などを基とし、現在の自分に照らしなおした文書をアップロードしに来る。病気(鬱病、精神分裂病等)でないと辛うじて言えるのは、友人ら、団体らと共に居るときは全くこれらの心理に自律的には陥らないことが根拠になる。意識とか科学とかの話題に積極的に触れられたら人が変わったように相手を執拗に論破もするが、大抵の場合はその話題にはならない。
多分この頁に組み込まれた最大の呪い=自分自身を最も損なうものは、所謂『精神機械論』とその眷属達とのやり合いだろう。彼らは自分の研究を完成させ賃金を得る過程で、人類としての総体的な自殺を図っているようにしか僕には見えない。曾ての賢人達が心身二元論を採ったのは、それ以外の方策では心を守り切れなかったからではないのか。我々は決して開けてはならない扉を開けてしまったのだ。そしてそれは最早閉じようがない。『知識』だから。人類が否応無く「定義された完全な精神」という種類の涅槃へ叩き込まれる、そんな知識が発見される日、これが最期の日だ。
極めて涅槃後の人類。これが『新世紀』の正体だろう。
宗教はたった一つ。其処では宗教家を除いて、誰一人生きたくて生きているのではない。感性や思考はそのたった一つの宗教に全て吸収されていて、個人という概念は無くなっている。もう既に科学者の存在は無いが、その墓は誰も壊すことが出来ない。
物質的にも精神的にもある程度豊かだから、ここを初めて訪れる者は天国と勘違いするかもしれない。巧妙な罠……自分で何かをしようとする深遠な直感みたいなものを極めて注意深く排除しようとする試み、全ての振る舞いを先例のある事柄に変えてしまおうとする試みに勘付くまでは。自由意思を完全に葬り去ろうとする意図が見えるまでは。いや、意識にさえ上らないかもしれない、先例を超えることなど不可能なのだから。計算された破滅。その通り、ここでは本当は誰も生きていない。
この日は、益々早く、スピードを増して、すぐ其処まで迫って来ている。