あのミヤダイがついに『まったり生きるのもツライぜ!』などと書いてしまった(別冊宝島「自殺したい人々」より)。
彼の言う、生きる理由としての『意味』(≒生きるべき[目標])から『強度』(≒生きるに値する[快楽])への移行は、やはり『意味』の呪いに捕らわれたようである。たとえ『強度』を夢見たとしても、世界の中で上手に迷ってしまえる幸福な愚者はさておき、失敗する人=そもそも『意味』『強度』などとつい考えてしまう人=賢明なミヤダイの読者にとっては、その追及は失敗してしまう事が明白になった……などと言い切ってしまっても良いだろう。残酷にも。
とはいえ、彼はココでは『意味』が如何に追求出来ないかを十分知っている。彼と彼の眷属たちが、そして高度情報資本主義の世界が、この命題を固定化してしまっている。もうとっくに世界の行く末は人間の紡ぐ『物語』からではなく、人間の主人である『資本』の戯れから、自動的に引用され動機づけられ決められるようになっているのだ。それは過去のように裏の黒幕であることですら放棄し、表面に躍り出ている。こうして『物語』が存在し得ない以上、当然ながら『意味』などは役目を終えてしまっている(だからこそ『意味』から『強度』へと堂々と向かうことが『イケてる』筈だったのである)。だからこの敗北は、何もオヤジ世代の知識人層の勝利を意味するものではない。秋本きつね的な、イヤになる位の闇があるだけ。
意味がないことだけは判っているのに、つい意味を深刻に求めてしまう僕ら。とっくの昔に滅びた実存主義を復権させようとしても、誰もが結局は強固な『個』など持ち得ないこと、誰もが他者の犠牲をどうしても生きるために必要としてしまう事などを誰もが知っているために、最早こんな安易さでは誰も自身を騙せない。一方では不況とか環境とか外圧とかによる生存自体の抑圧が確実かつ急速に進んでいるから、オヤジやコヤジの世代の想像を遥かに凌駕する危機を『無意味』に越えねばならないのが、自分の所属する世代だったりする。
必死で消化試合を続けること、これが『終わりなき日常を生きる』ことの本質なんだろう。愚かしいが、代案が嫌ほど頑張ってても見つからないのだから(こういうことを『愚かしい』と思わないヒトなら、既に目的ナシには生きられないヒト=『意味』が至上なヒトではない筈だ)。でも何故こうまで『必死で』消化しなければならないのか。何故『無意味』を『まったり』出来るような社会じゃないのか。その答えはたぶん、そんな態度では人を殺せない(=経済的に勝利し誰かのパイを奪い、食いぶちを得られない)からだろう。だが何故そもそも人殺しが必要なのか? 何故ここまでして生産力を維持せねばならないのだろうか。端的に言って、それは『生きているから』[だけ]ではないのか。
人間の生理的な必要性=『欲』に基づく培養層が間もなく完成しようとしている現在、複雑で新種の欲望(例えば、無意味をまったり生きようとか)を持っている事それ自体が、培養層=経済構造からの攻撃を受ける材料になる(自ら進んでは生理的な=既に管理されている欲望を充足しようとしないので、消極的な淘汰を受けるから)。では、培養層から死なずに抜けられないのだろうか? 生理的な欲による管理が絶対に必要な『肉体』だけを捨てられたら? 『意識』だけの存在になれたら? せめて『無意味』を『まったり』と受け止められるだけの余裕と時間が出来るだろうか?
『サブリメーション(電脳化、“昇華”)』=ネットの歪みを拡張した暗喩、が極めて『彼岸』と感覚が近いのは、こんな裏がある筈だ。誰も『サブリメーション』を行なうと同時にオリジナルの肉体を破壊するとは言っていないにもかかわらず、あのストーリーを見た人が『死』を連想する本心は、その人自身の心の内側でこんな種類の期待と不安があったからではないだろうか(だから“人類補完計画”とか“プロトコル7”とかの匂いが少々キツい程に香っても、本作はオリジナル性を持つのだろう)
これが果たして『鉄の塊が空を飛ぶ筈がない』といった現実と同じように、いずれは本当に実現される現実かどうか、そうやってコピーした人格が本当に人格たり得るのか等は相当突っ込んだ議論を繰り返して来たので別項で書く……かもしれない。ただ言えるのは、このような技術を御伽話として要求するような残酷で加速された時代精神は、あくまでも「90年代後半」の寵児だろうということだ。そろそろ次の年代に向けた空気が欲しいところ。
---thought about "Ace Combat 3 erectrosphere"