人のこころの中を読める人間が居る。別にコレは何らかの超能力を指すワケではなく、単に対象となる人の僅かな台詞・態度・経歴・雰囲気・価値観・関心事から総合判断して、相手の自我構造をそれとなく探るだけの話であり、慣れないままにこの能力を使う人は
『深読みする人』とだけ思われるアレの事だ。そうした
『深読み』が正確な
知識、豊富な
体験、そして何といっても
自分自身の痛みの体験から類推が利くようになってくると、恐ろしい精度を以って相手の心を読めるようになる。(ここで読んだ意識を客観的言語に直せない場合、あまりにもプリミティブに読み解いた意識を出した場合、そして『読んでいる』と公言して止まない場合、
『妄想型精神分裂病』扱いされて隔離されるので注意!<謎)
僕の場合、相手に侵入する際に書かれたコトバを媒介とするのが、他の方法に比べ得意かも知れない。この状況下でこの文章=心理はこんな感じ、というのが判る(勿論、ハズす『タイプ』も居る)。
もちろん相手の事を読んでいる際は、余計な反感を避けるためにそんな事実を相手には告げない(敢えて告げるなら、相手の心理的な方向をこちら側で規定したい時に限られる。
『あなたこう思ってるでしょ?』と言われて、
自分の思いを変えない人のほうが少ないからだ)だけでなく、そもそも相手を『読もう』として読んでいるわけではないのが興味深い。それはまるで意識を読まれている他者こそが、読み手側の自我に『
侵入』しているとすら言いたくなるような体験を伴う。そんな事情のために、多くの場合は読まれている相手は自分が読まれていることに気がつかないだろう。だが兎も角、そうした他者の意識へのダイビングは実在する。
『共感力』は、元来このレベルで実現されていたものだったのではないだろうかと個人的には思っている。
ダイブした側は、
相手に限りなく添う事で自分の意識なり欲望なりを薄めてしまい、また見えてきた他者の持つ恐るべき
『業』にすっかり呑み込まれてしまう為に、恐ろしく疲労してしまう。だがこんな能力に自覚的でない場合(殆んどはそんなもんだが)、その疲労の原因となっている他者意識へのアクセスを自分自身で制御できず、
人と逢うことを避けることで自分自身を護るか、いっそのこと自分自身というものを完全に失ってしまおうと開き直って
社会的シャーマンの位置(風俗産業、巫女、カウンセラー、目立たない職場、ある種の社会の犠牲者など)へ自分を追いやることで安定しようとする。そんな役割が実現できるのは、ダイブされた側は大抵おおきな癒しを得るからだ。逆に使って、最も手痛い精神的打撃を与える事も可能ではあるが、何故か人にダイブ出来る人は優しい人が多い。いざ読んだら、その場所に物凄くドス黒い魔物を見て逃げ出したこともあるので、僕には当てはまらないが、そんな魔物と直面してなお逃げずに相手を包容してしまったり、そのまま相手の精神に喰われるままになる人間もいる程である。(世の中には、他者の意識にダイブできる人間に寄って来て、芯の髄まで喰らおうとするタイプもいるという事だろう。少なくとも3名知っているが、
彼らは確かにそうしないと自分を維持できないようである。またこんな役割は(容易ではないにしろ)逆転することもあるようだ)
……と、以前から自分や自分に似た人格を持つ人々を見て思ってきた。だがこんな意識(考えようによっちゃ物凄く残酷な運命だし、逆に考えれば非常に精神分裂的で危険な意識構造でもある。そして何より、このタイプの精神構造を持つ人は
幸せそうでない人々が圧倒的に多いのである)を得るきっかけや共通項、共通となる病理はないのかとずっと探していたら、最近やっとそれらしいものを掴んだ。
自分と他人の境界が薄いからこそ、他者が侵入できる素地が出来上がるのだ。とすればコレは、流行りの
人格障害の一種だ。そして何故そんな病態が出来上がるかを考えた時、其処には『自己』の、特に『欲望』の肯定感のなさが特徴的であるように思う。自分という中心の中で、
他者と主に対立するであろう部分は、理性や知識や感情ではなく、他者をも巻き込んだ世界に対する『欲望』だろうからだ。事実この視点で周囲を観察すると、確かにその部分におおきな空白のある人が多い。逆に言えば、その部分を上手に健全に蘇らせさえすれば、こんな精神状態からは抜けられる筈なのである。
もっと言えば、先に挙げた「『他者を読める人』を専門に狙う人」もまた同じ病理を抱えているといえる。彼らは、余りにその部分が大き過ぎるから困る筈だからだ。
死に至りかねない優しさを持っていた人、
エキセントリックな癒しを行なっていた人、そんな人々が幸福になると同時に社会から見て詰まんなくなるカラクリも、同様に説明できるかも知れない。『詰まらなさ』とは、実はとても幸せな事なのだ。
大昔から『巫女』が処女/童貞に限定されていたり、何らかの社会的不具者で成立していたこととも、若しかしたら関わるのかも知れない。
意識の伝播に習熟した人をこそ
『電波系』と呼ぶに相応しいとしたら、別にそれは新しい単語でも何でもない。