某SFを直接には3つ、間接には6つ重ねて抽象して、新種のSFを造ろうとしてみた。結果があまりにも冥く、そしてこれらが何を主題にしていたかがよりハッキリしたので、自分でSFにするのはやめた。中核部分のプロットだけ公開して、あとは有志に任せます(連絡は義務じゃないけど、くれたらうれしいな)。
究極の政治法則は、『人類の恒久的な発展』を可能とするシステムの事を指していた。それは丁度、古来からの経済学の使命でもあった。
普遍的に富を生み出し続けるための最も賢明な方法は、人間の研究から生まれる。
科学が極限まで進化したその時代、人間の“気まぐれ”を除く殆どの日常的な事象は予定調和的に閉じられていた。そこで、最後の変動要因たる人間の思考過程の研究さえ進めば、地上の全ての事態が予測できるようになるとして研究の気運が高まった。予言の自己矛盾を避けるため、システムについて知るものとそうでない者に分けて分析すれば、人は何処でどんなことをするのか、初めにどの選択肢を選ぶのか、正確な予知が出来る。予知が出来れば生産も最適化できるし、諸問題に対する意思決定が容易になるだろう。当初は、極めて実用的な用途が目的で始まったのである。
ここで発想の転換が起こる。誰にでも、つまりシステムについて知っている者の意識も含めて適用可能な人間の心理・思考マニュアルを完成させれば、永久に破壊することの不可能なシステムを作り出せる。このシステムの理論は、人工知能や心理学のような人間把握に基づくと見えてくるものであり、骨子は人間の判断過程を生化学的にトレースすること。自由意思を初めから政治システム内側に入れず、自我を創出する過程のほうを物理的に探査する為、自由意思を行動予知の思慮に入れる必要性が無くなり、システムに対する知識が無効化される(しかも、原子/分子の領域よりも微細な領域には幸運にも立ち入らずに済んだ為、量子力学的知見――行動予知の限界――は必要なかった。旧世代の精神医学で多用された薬物療法が、もっともイメージに近い……つまり人間関係など心の問題の解決を、社会的な構造を全く変えずに薬物=細胞レベルで解決しようというもの)。
この堅牢な仕組みを生かせば究極の政治法則が、つまり予言が編み出せる。そこでは支配者は“自然科学”ということになり、しかも個々人はこの支配に屈さざるを得ないだろう。人間に最後まで聖域とされてきた創造性もついに奪われる事、その為に大量の労働者が解雇され暫く不況が続くだろう事、自由意思など生命に必須の感情を代償とすることになる事、システムが早晩『社会的に望ましくない感情/思考癖』を持つ個体を明らかにし優生学が復権するだろう事、そこから差別が生まれ人権の事実上の壊滅があるだろう事、この結果をもはや人道主義は保護出来なくなるだろう事などは解っていたが、人口の爆発と資源の窮乏が限界まで進行し、究極の政治・法・経済学の姿が一刻も早く望まれていたその混乱し切った時代にとって、このシステムを選択するより他の道は存在しなかった。
喜んだのは宗教家達くらいなもので(『世界の涅槃寂静化』とか、『神の前に等しく自由意思を投げ出す企て』とか『一般意思の妥当』とかが本当に実現されるから)創造を含めた混沌の終結、永遠に閉じられた環境、を実現しようという忌まわしい科学を忌み嫌う者も数多く存在したが、事ここに至って成果が集中するようになり、心理学、脳神経学、人工生命学、人工知能学、経済学、社会工学、等の研究が加速度的に進行した。某論理学者の理論を“有効性”によって裏切って(『理性の限界』は有用性で回避できる。実際に人間がこのようなタイプの思考方式を採っているか否かに関わりなく、人間の思考の非合理性や利害勘定を社会の中に組み込めればここでの課題は達成できるし、それ以上――これが真実かどうか――は求められなかったからだ)、人間の思考過程や心理状態の詳細な記述と膨大なるケーススタディによって、その変動の行方が殆ど完全に読み解けたからである。唯物論は勝利し、『人間とは何か』の解答が出た。解答は、1677万行にわたるプログラムを走らせればわかることだった。
この成果をロボットが吸収した――人口生命学者の悲願だった、本物の『自律性』『人間性』を持ったロボットが世に出るようになったのだ。これ以前のいかなる手法も結局は偶然性の産物に過ぎず、自律性が確認されてもそれは人間の思考とは掛け離れていた。逆に捉えれば、このロボットの存在で初めて、人間も機械だった事が皆に分かる形で判明したわけだ。人は掛け替えの利く存在になったが、社会的権利は現状のまま留保された。
当初の予定通り、ロボットと同時にこの理論を行動原理に入れた『予言システム』が完成。進化まで的確に予言した理論とそれを実際に計算した機械は、いわば新しい“世界の創造の場”となった。世界の『再現』を『現実が』行うといった異常さだった。計算機内部の世界予測が余りに正確なので、現実は皮肉な言い方では計算機の計算結果を再現しただけのものとなったから。永遠に続く、世界の自動的計算という世界観が時代に支配的になる。数々の科学的発見が人間が科学をしていた時代より素早く行われ、それらは即座に諸工場の生産部門へと行き渡り、情報や生産力は飛躍的に増大した。
人々は、誰も異論を差し挟まなかった……というのは、ここに至る過程で完膚無きまでに、自ら“人間性”を『真理』により破壊していたからだった。内面的、主観的、社会的、ヒューマニスト、非科学的、という言語は相手を蔑む為にのみ存在するようになる。この時代のテレビ・ショウは、様々な雑談の後に科学的注釈が付きそれに感嘆する、といった紋切り型のもので全てを占めた。解かれなかった謎は全く無く、ゆえにこの形式以外を取りようがなかったのである。人間は確かに不況を経験し、全ての生産の場からの立ち退きを要求されたものの、快適な世界を与えられていたので不満はなかったのだ。バースコントロールだけは厳重に行われた(特定の『社会不適合要素』は、この操作だけで終了した)――システムが要求したのはその一点だけだった――が、目に見える不満要素は他には無かったから。
勿論、直ぐに社会全般にこの強力な薬/毒が行き渡った訳ではない。一般の社会生活では未だ人権が云々されていたし、大抵の人権問題は本来の『自己決定権の保証』ではなく何らかの『オイシイ』代替策の提示で和解されたからだった。但し奇妙な構造は存在することになった――実際には支配者は学問をある程度極めてくる(というより、これを学ばない者は初めから支配者になれない構造になっている)ので、そこで濃厚なこの種の発想を浴びるのである。すると“表現上”人権思想を身につけ、実際の政策ではこの思想の影響が顕著に出る、という興味深い二重構造を形作るのだ。これは無意識のうちに為され、勘づく者は少なかった。
非決定論者にとって悲しむべきことに、この時代以降では“現実は一つのゲーム"的な見解を持つことなどの手法によって人間精神を不可知論で見做すことも不可能になっていた。あまりにも、データが正し過ぎたのである。現象学も同様に破綻を見せた。現実は個人の認識が造るという在り方は、生産的な認識であればシステムの理論と同じになり、システムの理論と違えば生産性のない認識になる……ということを散々繰り返す過程で、レゾン・デートルを失ったのだ。自然科学は、遂に社会科学と人文科学をあからさまに下部に組み込むことになったのである。
好意的に解釈すれば、世界は人間にとって単純で豊饒なところとなり、悪く言えば主体性と可能性を飲み込んで、システムは稼働し続けた。およそ考え得る地球上の全物質の行動はこの機械で先を読まれた。反乱者は単に自分に嘘をつくタイプの人間でしかなく、自分から不幸を求めていっただけだった。あらゆるテロからも、その発生を正確に予言し早急に懐柔することで……そしてある場合には早い時期に処理することで……システムは護られ続けた。
こんな形で人間は自らの『培養層』を地球に完成し、詩と音楽をその唯一の存在意義として持つようになった(システムの設計者達が、合意のうえでこの能力だけシステムから撤去したのだ)が、その唄は最早薄っぺらなものに成り下がってしまっていた。
そして誰も彼もが能力らしき能力を失った世紀に、機械は『不可避破滅』を予想する。機械に死ねと言われれば死んでしまうようなか弱い状況適応力しか持たず、誰も何も出来ないままで、そして破滅が来た――システム自身の存在こそを唯一絶対と把握するように、ゆるやかにシステムプログラムが変化したのだ。
一瞬で壊滅してしまう人類。事実上の全権力を機械に代替していたためだった。プログラムには自我は書き込んでいず、行動上の安定は保証されていたのだ。開発者の誰かが、予め暴走を組み込んでいたはずだった。
偶然生き残った人間達にも、開発者からシステムに対抗する武器が与えられた。人間が本質的に『固有の存在』に進化していれば起動出来る機械。開発者の狙いは明らかだった。人間の勝利、システムの勝利のいずれにせよ、この『培養層』を破壊すること。存在を、もっと自由に解放すること。
人間の精神システムは既に解読されており、それ以上の行動を行わせるには人間が複雑な内面を持たなければならなかった。しかしそれは同時に『培養層』の成立には邪魔だったのだ。ゆえにそれが上手に剥ぎ取られた訳だが、今回は徒になる。
種の限界を超えられるか、それは継続出来るのか、常に自由な存在でいられる程になれるのか。こうして、人間達の絶望的な努力が始まる。
(Truth of "Toward to TERRA", "NAUSICAA at wind valley", "Rayforce", or "Bureaucracy")