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2008年12月29日(月) 22時59分

激動政局2008「崩れる権力の楼閣」(中) 封印された辞意表明 産経新聞

 ガソリン攻防の「取りこぼし」と言われた道路整備特別措置法が衆院再議決で成立した5月13日。首相、福田康夫は衆院第1議員会館の事務所にいた前首相、安倍晋三を訪ねた。

 「いや〜、『戦略的互恵関係』っていうのはなかなか便利な言葉だね」

 福田はさばさばした表情でこう切り出した。来訪の名目は5月7日の胡錦濤中国国家主席との会談についての外交報告。12日には中曽根康弘、森喜朗の両首相経験者と会っていた。

 だが、安倍は胸騒ぎを感じた。「外交報告ならば昼食会などで一堂に集めればよいのに、なぜ個々に会う必要があるのだろうか」

 福田と安倍は同じ清和政策研究会(町村派)出身で、元首相の小泉純一郎の下で官房長官、官房副長官を務めた間柄だが、政治手法は正反対でソリが合わない。2人で会うのは福田が首相就任後初めてだった。

 安倍の不安は的中した。福田は淡々と外交報告を5分ほどで済ませ、唐突にこう切り出したのだ。

 「小沢(一郎民主党代表)っていうのは本当にひどい男だ! もう国会は延長せずに閉じる。僕はね、予算が通れば辞めてもいいと思ってたんだ…」

 さすがの安倍も慌てた。

 「何言っているんですか。7月にはサミットもある。ここで踏ん張らないでどうするんですか!」

 安倍の取りなしに福田は「まあサミットがあるからね…」と矛を収め、「おじゃましたね」と帰っていった。残された安倍は胸を痛めた。福田を苦しめ続けてきた衆参のねじれは、そもそも安倍が昨年の参院選で大敗したことにより生じたからだ。

 福田は首相経験者しか自らの苦しみは分からないと思ったのだろう。12日に会談した森にも同様に辞意をほのめかしたが、9月1日の辞任表明まで周囲にはそんなそぶりさえみせなかった。だが、すでにこのころから福田は「引き際」を探っていた。

   × × ×

 ところが、民主党はゴールデンウイークを境に急速に戦闘意欲を失っていた。ガソリン攻防のクライマックスに参院で首相の問責決議を可決すれば、福田政権に大打撃を与えることは確実だったが、福田が居直れば、決議が法的拘束力のない「竹みつ」だとバレてしまう。加えて決議後に残りの国会をすべて審議拒否すれば、国民の批判の矛先は民主党に向きかねない。

 逡巡(しゅんじゅん)したあげく、参院が問責決議を可決したのは国会閉会直前の6月11日。旬を逃した「伝家の宝刀」は単なる政治的なパフォーマンスに終わった。

 一方、福田は得意の外交分野で得点を稼いでいった。6月に独英伊を歴訪し、ローマの食料サミットにも出席。7月7〜9日の主要国首脳会議(北海道洞爺湖サミット)でも地球温暖化対策の長期目標を首脳宣言に盛り込むことに成功し、議長国として存在感を示すことができた。手応えを感じた福田は次第に気力を取り戻し、自民党の焦点は内閣改造・党役員人事に移りつつあった。

 だが、その裏で福田が予想もしなかった動きが進みつつあった。公明党による「福田降ろし」だった。

   × × ×

 「次の衆院選はいつになるか分からない。福田首相が自らの手で解散するか。あるいは支持率が低迷し次の首相で解散になるか…」

 7月2日夜、前公明党代表の神崎武法は千葉県内での講演で「次の首相」を口にした。自民党はこの発言をさほど重く受け止めなかったが、実は公明党の支持母体である創価学会の意をくんだ「観測気球」だったとの見方が強い。

 創価学会は安倍政権のころから平成20年中の解散を強く求めていた。21年には7月に東京都議選があり、衆院選に総力を結集しにくいからだ。一時は「先送りやむなし」と傾いたが、ガソリン税攻防後の支持率低迷を受け、「福田退陣→新首相選出→年内解散」に舵を切り始めていた。

 創価学会が注視したのはサミット後の内閣支持率だった。サミット効果で6ポイント上がれば、政権は回復基調に乗るが、それ未満ならば「退陣やむなし」と踏んだのだ。

 果たして内閣支持率はサミット後も横ばいだった。これを受けて公明党は露骨な陽動作戦に動き出す。幹事長の北側一雄は「内閣改造したからといって支持率が高くなる保証はない」と言い放ち、秋の臨時国会の大幅先送りを強硬に主張。代表の太田昭宏は、福田の党首会談の誘いに難色を示した。内閣改造を断行されれば、福田政権のまま解散になる可能性が高まるからだった。

 自民党執行部はじだんだを踏むが、公明党にも言い分があった。1つは断りもなく小沢−福田の党首会談で大連立構想を進めたこと。大連立となれば次は「公明外し」になることは自明だからだ。もう1つは1月末のガソリン税攻防で自民党がブリッジ法案提出から議長斡旋(あっせん)までを独断で進めたあげく、4月のガソリン値下げを食い止めることができなかったことだ。

 公明党による政権揺さぶりに続いて、創価学会は自民党領袖級と直接接触し、年内解散に向けたシナリオを動かし始めた。創価学会幹部はこうつぶやいた。

 「キーワードは『スマートな辞め方』だ。8月の五輪開会式で北京の青い空を見上げて決断してもらえればいいんだが…」

   × × ×

 友党の心変わりにより再び苦境に立たされた福田だったが、8月1日ついに内閣改造を断行した。焦点は「ポスト福田」最右翼の元外相、麻生太郎の幹事長起用だった。

 7月31日夜、麻生は妻と2人で山形・かみのやま温泉で静養中に福田から電話で幹事長就任を要請された。麻生には苦しい決断だった。幹事長に就任すれば福田と一蓮托生(いちれんたくしょう)となりかねない。だが、固辞すれば麻生が福田に引導を渡したことになる。麻生は即答を渋り、結論は1日の首相公邸での会談に持ち越された。

 「自民党は結党以来の存亡の危機です。なんとか力を貸してほしい」

 福田の切々とした説得に麻生はグラついた。そこで福田は笑みを浮かべ、こんな「切り札」を出した。

 「私の手で解散をするつもりはありません。あなたがやってください」

 麻生は二の句を継ぐことができず、深々と頭を下げた。

 麻生の幹事長就任により、自公のきしみは消え、政権は小康状態に戻った。だが、福田にとって内閣改造は「引き際」を探るための舞台装置だったのである。

 =敬称略、肩書は当時

 

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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081229-00000581-san-pol