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2008年12月27日(土) 21時32分

福田前総理、1カ月前に退陣予告 「私の手で解散ない」中国新聞

 七月三十一日夜、山形県内の温泉宿。昨秋の自民党総裁選で敗れ無役となっていた麻生太郎は妻の千賀子と久しぶりに水入らずの時を過ごしていた。携帯電話の呼び出し音が静寂を破る。翌八月一日に内閣改造・党役員人事を控えた首相福田康夫からだった。

 「自民党は結党以来の危機なんです。麻生さんの力がぜひとも必要なんです。幹事長を引き受けてくれませんか」。就任を渋る麻生。しかし福田の口からは予期せぬ言葉が飛び出した。「私の手では(衆院の)解散・総選挙をやるつもりはありませんから」

 衆院議員が任期満了を迎えるのは来年九月。就任一年にも満たない福田が自らの手による解散を否定したということは、「早期の退陣—麻生への禅譲」を約束したのと同じ意味になる。

 麻生は電話を切り、黙り込んだ。「まさか受けるんじゃないでしょうね」。横顔をのぞき込む千賀子に、麻生はつぶやいた。「向こうはべたおりだ。受けざるを得ないかもしれない」

 福田は約一カ月後の九月一日夜、“予告”通りの退陣劇を演じた。

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 永田町に激震を走らせた福田の政権投げ出し。退陣会見で「あなたとは違うんです」と言い放った福田が辞意を固めるまでの軌跡をたどり直すと、ねじれ国会に翻弄ほんろうされて気力と当事者意識を喪失していった「ひ弱な宰相」の姿が浮かび上がる。混迷を深めた二〇〇八年政局の底流を探った。(敬称略、肩書は当時)

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 ▽奥の院

 「すべて予定通りです。向こうは納得していますから」。日銀総裁人事で副総裁(元財務事務次官)武藤敏郎の昇格案を国会に提示した三月七日、福田は日銀総裁福井俊彦に電話し、民主党の同意取り付けに強い自信を示した。

 福田は自民党執行部に、民主党との折衝を伊吹文明—鳩山由紀夫の幹事長、大島理森—山岡賢次の国対委員長ラインの二ルートで進めるよう指示。その結果、「民主党サイドは『武藤さんで結構だ』と言っている」との情報がもたらされた。

 しかし武藤昇格案は同十二日の参院本会議であっさり否決された。次に福田が持ち出したのが元大蔵事務次官田波耕治の起用案。「主計局長経験者ではないから大丈夫みたいだ」。そんな福田の見通しも裏切られ、総裁ポストは空席となった。

 「奥の院」にこもる民主党代表小沢一郎の真意をつかめぬまま、周辺幹部の物言いに振り回される日々。昨秋の大連立騒動の記憶も脳裏をよぎる。最初に大連立を持ち掛けた小沢は「私が副総理をやる。農相、厚労相、国交相もこちらだ」。最終局面の党首会談では「こういうことはすぐに決めた方がいい」と勢い込んで党役員会に向かった。それがご破算になるや、あとはなしのつぶてになった。

 どうして国政停滞の打開へ協力してくれないのか—。我慢は限界を超えた。四月九日の党首討論。「小沢はどんな顔をして出てくるのかな」。周囲に吐き捨てるように語った福田は国会でも不信感を爆発させた。「誰と話せば信用できるのか、ぜひ教えてほしい。かわいそうなくらい苦労しているんですよ」

 この直後、山岡は官邸サイドに「再び大連立を検討しないか」と打診した。しかし福田は小沢の意向なのか見極められずに受け流した。

 ▽サイン

 福田が「辞めたい」「疲れた」と漏らすようになるのも四月からだった。秘書官が国会答弁の案文を説明しようとしても「適当にやっといてよ」。辞める日取りを探り始めたのは七月の洞爺湖サミットの直後。八月の内閣改造は麻生への禅譲路線のレールを敷くことが主眼だった。九月中の臨時国会召集を考慮すれば、月初めが辞任のタイムリミットだった。

 退陣表明の二日前の八月三十日。福田は幹事長の麻生をひそかに公邸へ招き入れた。辞意は明かさなかった。ただ九月の皇室関係の日程表をさりげなく示した。組閣には天皇の認証式が必要になる。麻生は首をかしげたが、退陣に向けた福田のサインでもあった。

 九月一日朝、福田は妻の貴代子にだけ辞意を打ち明けた。大阪で災害訓練を視察した後の帰りの機中では、おもむろに紙を取り出しペンを走らせた。「やっと所信表明演説に取り組む気になったな」。同行秘書官は安堵あんどした。だが中身は夜の退陣会見用の原稿だった。

 「総理がお辞めになったら、後を継げる人なんているんですか」。会見直前の首相執務室。酒席から慌てて戻った官房副長官二橋正弘は赤ら顔で食ってかかった。福田は淡々と説明した。「小沢とはもうやれない。私が辞めて局面を変えるしかないんだよ」

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200812270262.html