記事登録
2008年12月27日(土) 10時08分

【葬送】「ビルマの竪琴」水島上等兵モデル・中村一雄(なかむら・かずお)氏産経新聞

 □26日、群馬県昭和村川額の雲昌寺

 ■他人のために捧げた人生

 映画「ビルマの竪琴」では、現地で生きていく決意を固め、「アア、ヤッパリ、ジブンハ、カエルワケニハ、イカナイ」と話すオウムを残し、仲間の元を去っていった水島上等兵。親族に見守られ、安らかに別れのときを迎えた。

 福井県の寺院で修行を積んでいた昭和13年に召集され、東南アジアを転戦し、20年、ビルマ(現在のミャンマー)で終戦を迎えた。

 捕虜収容所では、帰国のめどさえつかない日々の中で、消沈する仲間に声をかけ、コーラス隊を結成。「荒城の月」など祖国の歌で、日本兵を激励し続けた話が、作家の竹山道雄氏(故人)に伝わり、戦争の悲劇を後世に伝える名作「ビルマの竪琴」が誕生した。

 復員後は学生時代から関心の高かった児童教育に邁進(まいしん)し、33年には住職に就いた雲昌寺(群馬県昭和村)の敷地内に保育所を設置した。さらに、児童文学作品の執筆にも取り組み、講談社児童文学新人賞を受賞した「ビルマの耳飾り」では反戦の信念を表現した。

 当時、仕事を共にしていた女性保育士は「登園時間には決まって門に立ち、『御利益があるぞ』と園児たちの頭をなでて、うれしそうにしていた」と思い出を語る。本当に子供が好きな人だった。

 平成6年、隠居。その後、活動は自身の「原点」に立ち戻る。ミャンマーに3度渡航し、10年には苦難のときを過ごした村に資金を提供、小学校の建設に尽力した。

 同行した戦友、高橋良雄さん(87)は「戦時中、食料などを分け与えてくれた現地の人々に『恩返しをしたい』と話していた。戦時に覚えた現地の言葉で村長にかけあった」と当時を振り返る。

 まるで何かに追われるかのように、他人のために捧(ささ)げ続けた人生。長男で住職を継いだ真一さん(60)は言う。「殺生を禁じられた仏門の人間が、戦地で抱える計り知れない矛盾。それが戦後の活動につながったのではないか」

 17日、老衰のため死去、92歳。葬儀では、参列者の悲しみを代弁するように、今年初めての大雪がしんしんと降り続けた。(時吉達也)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081227-00000046-san-soci