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2008年12月25日(木) 00時00分

(3)ひばり登場一転大入り読売新聞

「芝居」「歌」2部構成で成功
新宿コマ最後の舞台となった演劇「春秋千姫絵巻」。この劇場で23年連続、30回の座長公演を務めた(1986年撮影)(c)ひばりプロダクション提供

 演歌の女王、美空ひばりは、東京五輪が開かれた1964年に新宿コマの舞台を踏んで以来、亡くなる3年前の86年まで毎年、公演を行った。劇場関係者は「ひばりさんがコマの育ての親」と口をそろえる。

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 60年代前半まで劇場は客足が伸び悩み、業界で“不入りのコマ”と揶揄(やゆ)されていた。当時、新宿コマで演出家を目指していたプロデューサーの下村順久(71)は、舞台から客席の白いシーツばかりが目につくほど、空席が多かった光景を覚えている。舞台袖に戻るなり「今日も看護婦の団体客でいっぱいだったわ」と、白っぽく見える客席への皮肉を口にする女優もいた。

 こうした状況を、ひばりが一変させた。

 初座長公演の前売り券が売り出された64年5月18日午前10時。劇場前は騒然とした。平日だったが、チケットを求める人たちの500メートルほどの行列が3重になり、劇場を取り巻いた。65年には、55日間の昼夜公演で計35万人を動員した。

 ひばりは、1回の公演に「芝居」と「歌謡ショー」の2部構成を本格的に取り入れて大成功を収めた。以降、新宿コマに出演する歌手たちもこの形を踏襲。ひばりの登場をきっかけに、新宿コマは70〜80年代の全盛期には「演歌の殿堂」と呼ばれるようになっていた。

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新宿コマ劇場初公演時の美空ひばり(1964年撮影)(c)ひばりプロダクション提供

 「芸にかける厳しさは歌手の中でも別格でした」。劇場で20年以上、音響技師としてひばりの公演を担当した渡部清(71)は、リハーサル時にエコーを入れて本人にしかられた。ひばりは言い切ったという。「歌唱にエコーを入れるのは歌をごまかしたことになる。自分の歌をごまかしてまでお客さまに聴いてもらいたくない」

 こんなこともあった。ひばりがギター伴奏で「悲しい酒」をしっとりと歌っていた時、客席で空き缶が音を立てて転がった。ひばりは何事もなかったように最初から歌い直したという。芝居で殺陣の一人がかつらを落とした時には、その前のシーンからやり直した。

 「常に100%の舞台を観客に見せようとしていた」。渡部はひばりへの敬服の念を隠さない。

 65年、「子連れの親もゆっくり舞台を楽しめるように」というひばりの提案で、劇場では当時珍しい子供同伴室がコマ劇場内にできた。79年には、舞台の出入りにアクセントをつけたいというひばりの希望で、舞台両袖の花道が新設された。

 新宿コマでの最後の公演となった86年11月の「春秋千姫絵巻」。この時すでに、ひばりの両足は立っていられないほど痛んでいた。気遣う関係者は「長く歩く花道は避けて、舞台の袖から登場したら」と忠告したが、かたくなに花道を使い続け、何事もなかったように立ち回りを演じた。

 劇場運営に長く携わってきた西村憲昭(61)は「歌のうまさ、観客に伝える力ともに天才。一緒に仕事ができてスタッフ、劇場ともに成長できた」と話す。

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 87年4月、ひばりは緊急入院。大腿(だいたい)骨壊死(えし)、慢性肝炎などの病名が並んだ。一度は活動を復活させたものの、全国公演中の89年2月に再び体調を崩し、6月に帰らぬ人となった。52歳。西村は「1日でいい。最後にもう一度、コマの舞台に立ってもらいたかった」と惜しむ。

 「昭和の歌姫」が観客とスタッフに残した数々の思い出。新宿コマが閉館しても、その伝説は人々の記憶の中に生き続けていくだろう。(敬称略)

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231230083639763_02/news/20081225-OYT8T00125.htm