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2008年12月23日(火) 13時10分

浮かび上がった「淀君の怨念」 豊臣家滅亡のプロローグ「方広寺鐘銘事件」のナゾに迫る産経新聞

 時代は豊臣から徳川へ移ろうとしていた。

 豊臣秀吉の死後の慶長5(1600)年、覇権をめぐって関ケ原の戦いが勃発する。戦国武将を二分した「天下分け目の戦い」。勝利を収めた徳川家康政権の始まりを確定づけた。

 だが、豊臣家がこれで滅びたわけではない。追い込まれるのは、慶長19〜20(1614〜15)年の大坂冬の陣と夏の陣。結果、大阪城に火が放たれ、秀頼と母・淀君は自害。処分は子孫や関係者にもおよび、ついに豊臣家は終焉(しゅうえん)を迎える。

 「豊臣を討て」。

 冬の陣の口実として使われたのは、方広寺(京都市東山区)の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という銘文だった。「『家』と『康』に名前を分断した表現を使って徳川家をのろい、豊臣家の繁栄を願ったものだ」と解釈され、家康が怒って挙兵に至ったというのだ。

 「言いがかり」とも思える理由だが、問題の銘文を考案したのは、豊臣とのゆかりが深い文英清韓(ぶんえいせいかん)という名の僧侶だった。

 果たして、銘文には口実通りの意味が込められていたのだろうか。

 本人は「豊臣、徳川それぞれの徳をたたえた」などと弁明したといわれるが、真意は謎に包まれている。

   ◇ ◇ ◇

 銘文が刻まれた梵鐘は、高さ4・2メートル、外径2・8メートル、重さ82・7トンの大きさ。東大寺(奈良市)、知恩院(京都市東山区)と並ぶ日本三大名鐘の一つにもなっている。

 方広寺は天下統一の栄華を誇った秀吉が、大仏を造って創建した寺院。その後、大地震や火災に遭い、慶長15(1610)年、父の遺志を継いだ秀頼が再建する。実は、家康が再建を強く勧めたのだという。

 木ノ下寂俊住職は「あくまでも秀吉の追善供養にと勧めたそうですが、寺の再建には巨額の資金が必要。豊臣家の軍資金を使わせてしまおうという思惑もあったのでは」と推察する。

 銘文起草の依頼を受けた文英清韓は、臨済宗の東福寺(東山区)や南禅寺(左京区)の長老を務めた人物。漢詩文にたけ、銘文も漢詩調に4文字の漢字が延々と続く。「洛陽東麓」から始まり、鐘を鳴らすタイミングや音色の特徴、製作の経緯などがつづられ、最後に「前住東福後住南禅文英清韓謹書」と署名されている。

 巨大な梵鐘を見上げてみても、事件の発端になった「国家安康」と「君臣豊楽」の小さな文字は、なかなか見つけられない。

 それほど存在感の薄い文字がやり玉に挙げられ、非難を浴びることになった。家康に付いた僧侶、崇伝による策略ともいわれている。

 後に大仏は徳川によって「寛永通宝」に改鋳されたが、なぜか梵鐘は残り、この冬も年をまたいで除夜の鐘が打ち鳴らされる。

 「寺に何も資料は残っておらず、当時をうかがい知ることはできないんですよ」と木ノ下住職。

 ただ鐘の裏側には人の姿に見える白い影があり「淀君の怨念(おんねん)の幽霊だろう、との言い伝えだけが残った」と話す。

   ◇ ◇ ◇

 昔から、僧侶は政治に多大な影響力を持っていた。文才があり、外国の文化、医学、建築学にも通じた存在。文英清韓も、加藤清正に伴って朝鮮半島に渡った経験があるほか、残された書などからみても、相当な文筆家だったようだ。

 権力者たちは、僧侶の力を脅威に感じた。同時に僧侶の側も、どの勢力に付くかを判断しなければならない。その中で、文英清韓は秀吉、秀頼の五山の学僧として遇され、豊臣家との縁を深める道を選んだ。

 文英清韓が二二七世長老を務めた東福寺の塔頭(たっちゅう)で、自身が暮らした天得院の爾英晃住職は「政治にかかわらないように山へと逃れた宗派もあるが、臨済宗はあえて渦中で生きた。時代を敏感に察知して立場を決めたのでしょうね」と話す。

 事件の後、家康によって天得院は取り壊され、文英清韓は追放される。後に許されたとも、出生地へ帰ったともいわれているが、その晩年は知られていない。

 それでも墓だけは天得院に残った。墓石の戒名は、「前南禅文英清韓大禅師」とある。

 梵鐘の銘文には記された天得院とつながる「東福」の文字はなく、同じ臨済宗でも徳川と深い関係にあった「南禅」だけが刻まれた戒名。264年に渡る江戸幕府下で生き残るには、墓石でさえこう名乗るしかなかったのかもしれない。

(田野陽子)

      ◇

 文英清韓 永禄11(1568)年、伊勢の出身といわれる。出家後に朝鮮半島に渡り、帰国後、東福寺や南禅寺の長老を歴任した。大坂の夏の陣の後、蟄居(ちっきょ)したとされるが、後に許されて伊勢に戻ったともいわれ、定かではない。元和7(1621)年没。

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