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2008年12月22日(月) 03時09分

零戦搭乗員かくまった夫死去、妻は恨み言残さず…外交文書読売新聞

 真珠湾攻撃の際に不時着した零戦飛行士をかくまった、日系2世の原田義雄さん(当時39歳)の妻梅乃さんは、「国家反逆罪」の汚名を背負いながら、女手一つで3人の子供を育て上げた。「何回か自殺を決心した」。22日付で公開された外務省の文書からは、“美談”の裏側で、日米両国に翻弄(ほんろう)された苦難の人生が浮かび上がった。

 ニイハウ島に不時着した西開地重徳(にしかいちしげのり)一飛曹(戦死後少尉=当時21歳)と義雄さんが、奪われた地図とピストルを取り戻そうと島民と戦った末に亡くなったのは、真珠湾攻撃から6日後の1941年12月13日(現地時間)。梅乃さんはまもなく国家反逆罪で逮捕された。2年9か月の収容所生活を経て釈放されたが、世間の目は冷たかった。

 梅乃さんは在ホノルル総領事に当時の苦悩を打ち明けていた。

 〈幼児を抱え、その生活を考え途方に暮れ、何回か一家自殺の決心をした〉

 3人の子供の将来を考え自殺は思いとどまるが、生活は楽ではなかった。

 〈洋裁を習い、夜を日についで働いた〉

 義雄さんの弟は、兄の汚名を晴らすかのように米軍の日系2世部隊に志願したが、梅乃さんは、愛媛県今治市に住む西開地一飛曹の遺族に恨み言を並べることはなかった。

 西開地一飛曹の弟、良忠さん(78)は68年、カウアイ島に移っていた梅乃さんを訪ねた時のことをよく覚えている。梅乃さんのいとこが、「梅乃はひどく苦労した」と良忠さんを非難すると、梅乃さんはすぐに、「そんなことを言ってはいけない」といさめたという。

 仏壇には、兄の写真が義雄さんの遺影と一緒に飾られていた。この時は元気だった梅乃さんも、「十数年前に亡くなったと聞いた」(良忠さん)。

 55年に西開地家に初めて届いた梅乃さんの手紙にはこう書かれていた。

 <わづか一週間のお知合でしたけど、とても深く印象付けられ、とくに故原田とはとても仲好く、深く語り合ひ、共に戦ひ、手に手を取って長い旅路へと立たれました。其(その)間とても御満足に見受けられました>(表記は原文のまま)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081222-00000004-yom-soci