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2008年12月19日(金) 14時21分

小室とエイベックス「共存共栄」から上場前年決裂の謎MyNewsJapan

 小室哲哉の「小室ブランド」は「出せば何でもヒットする」隆盛を極め「小室ファミリー」は、音楽産業はもちろん、広告/マスメディア産業の一翼を担う大勢力になった。trfや安室だけでなく、華原朋美、篠原涼子、hitomi、H jungle with t(ダウタウンの浜田雅功と小室のプロジェクト)などだ。

 だが、株式公開の前年、1997年に小室とエイベックス社は袂を分かつことになる。松浦勝人エイベックス社長が自分のブログで公開している同社の歴史「Avex Way」を原資料に、その過程をたどってみよう。

 小室がプロデュースを手がけた「小室ファミリー」は音楽、広告、マスメディア産業の一翼を担う大勢力になった。

 「Avex Way」は次のように記している。

 「エイベックスが大きくなるにつれ、人もたくさん要るようになり、松浦周辺のスタッフは増えて行った。他方で、あくまで1アーティストである小室の専属スタッフは、そうは増えてはいかない。ただ単に、小室哲哉というブランドだけがビッグになっていく。

 そうなると、小室哲哉個人に群がる人々からエイベックスは邪魔になっていた。『他のレコード会社のほうが、もっと儲かるのではないか』という思惑が働いた。小室にも慢心が生まれていたのかもしれない」

 そして、小室はTMNとして在籍した「ソニー(ミュージックエンタテインメント」を引き合いに出すのが口癖になっていく。

 「ソニーは僕が売れなくなっても、一生面倒を見てくれるんだよ。そのくらい貢献したんだよ」

 小室が言っていることは「お前らにも貢献したんだから、ソニーなみに一生食えるくらいのカネは出せ。出さなければ辞める」と言っているようにも聞こえる。これはエイベックスへの大胆な「見返り」の要求とも取られかねない。

 こうしてぎくしゃくし始めた小室とエイベックスの関係が具体的な亀裂を生むきっかけは、小室自身のバンド「globe」(注:小室がキーボードを担当したほか、ボーカルは小室の現在の妻Keiko。ラッパーとしてマーク?パンサーを加えたトリオ編成)のスタートだった。

 前掲書で、松浦社長はその経緯をあけすけに語っている。

 「globeをエイベックスでやるか、エピック?ソニーでやるか、小室さんが天秤にかけるわけです。ELT( Every Little Thing )のトラックダウンのときに、僕が使いたかったエンジニアを使えなかったり、小室さんからちょっとした意地悪をされたり、そういうことに疲れてくる時期でもあり、僕は、『ソニーでやったほうがいいですよ』と提案するんです。『うちでも同じ条件でやれますけど、小室さんはソニー出身だし、ソニーでやったほうが絶対成功しますよ』と言ったんです。それが、どういうわけだか、globeはうちの担当になるんですよ。

 その頃、小室さんもそれなりのお金が入って、後々の僕みたいに(笑)、いい気になっていた面もあったようで、問題になることも起こっていました。ソニーの丸山社長に『小室さんと華原朋美のマネジメントをやってくれ!』と頼まれるんですよ。(烏賀陽注:1995年から99年ごろにかけて小室と華原は恋愛関係にあったと言われている)

 プライム?ディレクション(エイベックスの系列会社)の社内に小室さんのためだけの組織として『TKルーム』をつくり、小室さんのマスタースケジュールまで管理するようになる。マネジャーにもプライム?ディレクションのスタッフがついて、華原朋美もプライム?ディレクションの所属になるんです。

 一方で僕らを試すような言動があるなかで、小室さんの息がかかったアーティストのマネジメントを僕らに頼んでいて…。なんか、へんな状況でしたね」

 1996年3月に発売されたglobeのデビューアルバム「globe」は400万枚以上売れたという。続いて97年3月にはセカンドアルバム「Faces Places」が出る。そして大阪、福岡、名古屋、東京と4都市連続ドーム公演という派手なコンサートツアーが続く。思えば、小室のキャリアは絶頂だった。ちなみに、翌1998年は日本のオーディオレコード生産金額が戦後ピークの6075億円を迎える。レコード会社、芸能プロダクション、コンサート産業。Jポップ業界全体が、遅れてきたバブル景気のような万能感に酔い痴れていた。

 が、このあたりでエイベックス社との亀裂は決定的になる。「Avex Way」は淡々と記述する。

 「東京ドーム公演を終えた頃から、小室は人が変わったように傲慢になっていった。メンバーとのロサンゼルスでの豪遊?発散ぶりも、半端ではなかった」

 小室は何かと何かを競い合わせて自分の価値を高めるようなやり方が好きだった。それは時に「ソニー対エイベックス」だったり「松浦勝人対千葉龍平」だったりした。その手法に松浦も疲れ始める。

 「そのあまりの居心地の悪さに、このまま行っていいのだろうかと思っていました。さらに、小室さんに人間的にもビジネス的にも、限界が来るだろうと思っていたんですよ。また、僕にも感情的な限界がやって来て、ケンカになるんです」(千葉副社長。前掲書より)

 決裂の日は97年7月にやって来た。「Avex Way」はその場面を細かく描写している。

 「場所を貸してくれ」。千葉は東京?駒込にある知り合いが経営するもんじゃ?お好み焼き屋に、午後10時過ぎに現れた。そして、朝5時まで携帯電話でのやり取りが続いた。横では千葉の部下が大泣きしていた。修羅場だった。

 現在は「エイベックス」社の取締役?伊東宏晃は、当時ロサンゼルスの小室の邸宅の屋根裏部屋に間借りし、犬の散歩から炊事、洗濯、レコーディングやスケジュール管理と、小室のアメリカでの生活の世話をすべて引き受けていた。その伊東にも電話が入る。千葉の声は怒気を含んでいた。

 「すぐに帰って来い!」「おまえは俺を取るのか、小室を取るのか、どっちだ!」伊東も、Keikoのマネジャーだった阿久津明(やはり現在はエイベックス社取締役)も、小室側との板挟みになりながら、結局は千葉の命令に従って小室から去って帰国する。

 小室側からは、丸山茂雄ソニーME社長が仲介に入った。「エイベックスはこれから上場するのだから、小室がいなくなったら大変なことになるだろう」と、ある条件を出してきた、と前掲書は記している(エイベックスが株式を店頭公開するのは翌98年10月)。

 松浦社長はこの提案を蹴飛ばす。
 
 「正直なところ、あまりにもふざけた条件だったので、全部いらないと蹴ったんです。みんなで話し合って、『ゼロからもういちどやろうと。小室なしでもいいじゃん』ってね。そしたら、なんで蹴ったのか不思議だったのでしょうね。丸山さんから呼び出されて、何回も交渉に行ったんです。

 結局、丸山さんが折れて、小室さんを説得して、globeだけは残すことになった。そうした経緯から、アーティストとしてだけでなく、ビジネスパートナーとしての小室さんの貢献に対して、僕らは株式公開のときにエイベックスの株、40株(当時)をワラント債(烏賀陽注:発行会社の株式を買い付ける権利が付いた社債のこと)を小室さんに付与するんです」

 こうして、1997年には小室とエイベックス社は袂を分かった。小室専用の部署「TKルーム」は解散した。「小室ブランド」を失った同社は、次の手を必死で模索するしかない。そのひとつが、松浦自らがプロデューサーとして歌手を発掘し、育てていくことだった。そうやって見つけた少女の一人が、1998年 4月にシングル「Porker Face」でデビューする。名前は、浜崎あゆみといった。
(烏賀陽弘道)


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