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2008年12月13日(土) 14時01分

空襲被害者は闘う 『民間戦災に補償を』大阪でも訴訟東京新聞

 昨年三月の東京大空襲訴訟に続き、大阪などでの空襲被害者十八人が、太平洋戦争開戦日の八日に集団訴訟を起こした。「無謀な戦争を始め、戦後も被害者を放置した」。東京訴訟原告団との交流が開戦から六十七年目の提訴に結び付いた。両訴訟の原告や支援者は、全国に散らばる空襲被害者への救済活動の広がりに期待を寄せる。 (橋本誠)

 「生まれた直後に焼夷(しょうい)弾に遭い、大やけどを負った。一生、思うように歩けないのが一番つらい」。大阪訴訟原告の藤原まり子さん(63)=大阪市=は一九四五年三月十三日に生まれた。

 出生から約二時間後、母親が藤原さんを抱きかかえて逃げ込んだ防空壕(ごう)に焼夷弾が直撃。産着に火が付き、藤原さんは大やけどを負い、左脚のひざや足首が曲がらない障害が残った。

 小学校では補助具を付け、脚をズボンで隠した。体育の授業はいつも見学。スカートをはきたくて、中学二年の時、ひざから下を切断して義足を付けた。「戦争さえなかったら」。藤原さんの悲しみは消えない。

 原爆被害などを除けば、民間の戦争被害者に元軍人・軍属のような国の補償はない。そのことに疑問を抱き、二十代半ばから民間の戦争被害者への補償を実現する運動に参加した。しかし、旧社会党などによる戦時災害援護法案は八九年まで十四回も国会に提出されながら、成立はしなかった。

 「もう裁判を起こすしかない」と思っていた二年前、東京での提訴の動きを知り、東京での集会に参加して大阪訴訟の準備を始めた。今年四月、東京訴訟の星野弘原告団長と児玉勇二弁護士を大阪に招き、勉強会を開催。東京訴訟の訴状や資料を大阪訴訟でも活用した。

 「東京の原告団に励まされ、すごくプラスになる」と藤原さん。児玉弁護士は「無差別爆撃という空襲が、国際法に反する違法性は東京も大阪も変わらない。互いが車の両輪として頑張ることで、空襲の議論はさらに深まる」と話す。

 「このままではまた戦争が起きるような気がする。国が謝罪と補償をすれば戦争はしにくくなる。私らみたいな人が二度と出ないよう、頑張らな」。藤原さんはそう信じて闘い続ける。

<大阪空襲> 1945年3月13日の大空襲は、B29爆撃機274機が大量の焼夷弾(しょういだん)を投下。約50万人が被災、一夜で約4000人が死亡した。8月までに約50回の空襲が繰り返され、うち100機以上の大空襲は8回。犠牲者は計約1万5000人とみられるが、依然として4割の名前が確定されていない。

(東京新聞)

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008121390140147.html