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2008年12月13日(土) 15時27分

【あれもこれも関西発!】通天閣産経新聞

 ■「大阪の空に光り輝く存在でありたい!」 

 数ある各地のタワーで、最も庶民の心に根付いたランドマークではないだろうか。大阪市浪速区の新世界にそびえる通天閣。日本初の鉄塔として誕生し、火災の憂き目に遭いながらも、地元住民の力で再建された下町のシンボルだ。さまざまな「関西発」を掘り起こしてきたこのコーナーの最終回は、人情味ある大阪人の心の灯として、街の移り変わりを見守ってきた通天閣の色あせない魅力を紹介します。(八木択真)

 「派手さはなく、高さもそれほどでもない。場所も大阪の中心でない。でもみんな通天閣を友達のように感じてるんじゃないかな」

 大阪・ミナミで生まれ、少年時代から通天閣を見上げて育った作家の藤本義一さん(75)はこう語る。

 誕生時は庶民があこがれる“夢の塔”だった。初代通天閣が完成したのは明治45年。当時の新世界は洋風建築の映画館や飲食店が軒を連ね、最先端の遊具を備えた遊園地「ルナパーク」があった。エッフェル塔を模した鉄塔は新世界の目玉施設で、75メートルの高さは「東洋一」と称された。

 その後も新世界は大阪の一大歓楽街として発展。しかし昭和18年、塔の下にあった映画館の火災で通天閣も類焼。戦況が悪化した翌年には解体されて鉄材として供出され、その後新世界も空襲で焼け野原となる。

 戦後の新世界に活気は戻らなかった。そんな中、地元商店主7人が「もっぺん通天閣を建てよう」と立ち上がる。メンバーは知恵を出し合い、関係当局への手続きや交渉に奔走した。しかし素人だけに苦難の連続。新世界住人の出資を募ったが、口の悪い人からは「再建できたらうどんで首つったる」とやゆされたという。

 メンバーは住人の出資を元に株式会社「通天閣観光」を設立。資金不足に苦しみながらも着工にこぎつけ、昭和31年秋に高さ103メートルの2代目通天閣が開業した。狭い敷地に加え、公道の上をまたぐ構造は、巨大タワーとしては異例だが、再建への執念が苦難を乗り越えさせた。開業1カ月で20万人の入場者が殺到し、その後も年間100万人以上が全国から訪れた。通天閣観光社長、西上雅章さん(58)は「通天閣のない新世界は考えられなかったんでしょう」とメンバーの情熱に思いをはせる。

 しかし熱気は続かない。昭和30年代後半になると光化学スモッグで自慢の眺めがさえぎられ、新世界に隣接する釜ケ崎(あいりん地区)で相次いだ暴動もイメージダウンになって入場者数は激減。昭和50年度はついに20万人を割り込んだ。その後長く展望台は閑古鳥が鳴く状態が続き、一時は巨額の赤字を抱え、割れた窓ガラスの補修もできないありさまだったという。

 それでもその存在は大阪を舞台にした映画や演歌、漫画の背景としてたびたび取り上げられ、大阪の象徴として定着する。客足も少しずつ戻り、通天閣で撮影されて大ヒットしたNHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」の放映が平成8年に始まると、入場者が激増。昭和レトロブームと界隈(かいわい)の串カツブームに乗り、昨年度の入場者は37年ぶりに100万人を突破した。

 西上さんは「今花開いたのも先人の苦労と街の人の力があったからこそ」と語り、最後に力を込めた。「来る人に大阪の文化を伝え、大阪人の心の象徴としていつまでも大阪の空に光り輝く存在でありたい」

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