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2008年12月13日(土) 12時35分

信長も許したカトリック信者の大殉教悲話 二代将軍秀忠とローマ法王庁産経新聞

 平成6年7月、鴨川にかかる正面橋(京都市)を東に渡った川端通沿いに、「元和キリシタン殉教の地」と刻まれた石碑が建てられた。碑にはこれ以上の説明がないのだが、元和5(1619)年に52人のキリシタンが一斉処刑された「京都大殉教」の舞台であることを示している。

 京都のキリスト教会の歴史は天正4(1576)年までさかのぼる。京都を訪れながら、教会設立の夢を果たせなかったフランシスコ・ザビエルの思いを受け継ぎ、オルガンティノが「南蛮寺」を建てたのが始まりで、織田信長の保護もあって信仰は広がった。

 信仰の力は、キリシタン弾圧に転じた豊臣秀吉政権下でも失せなかった。朝鮮出兵など秀吉の政策に対する反発や不満の高まりもあり、庶民だけでなく若い大名や武士たちも洗礼を受けるケースが増えたという。

 秀吉の死後、徳川家康は布教を公式に許可。堀川妙満寺跡の教会を中心に伏見にも教会が作られた。

 日本最初の女子修道会も生まれている。当時の古地図に残る「ダイウス(デウス)町」の地名は、キリシタンが住む集落を意味し、信者は4000人にもふくらんでいたとされる。

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 だが、徳川幕府も時とともに次第にキリシタンに対する取り締まりを強化していった。

 その中でも、京都の信者たちは比較的平和な時を過ごしている。背景には、京都所司代の板倉勝重の存在があったようだ。

 幕府の命による取り締まりにあたり、勝重はできる限りキリシタンを守ろうとしたようで、何人かの囚人を放免していた。だが、皮肉にも、その優しさが悲劇を招いてしまった。

 近畿の視察を終えた徳川秀忠は伏見城で、勝重に父・家康が宣教師からもらった時計を修理できる職人を捜すよう命じた。

 勝重は捕らわれのキリシタンを救えるかもしれないと思い、時計を修理できる職人は1人しかおらず、しかしキリシタンとして捕らえられていることを明かすのだが、秀忠はまだ処刑されていないキリシタンがいることが許せなかった。

 秀忠は牢内はおろか、牢を出た者すべての処刑を指示。処刑方法まで指定する具体的な命令を前に、勝重も従わざるをえなかった。

 元和5年10月6日、処刑は決行された。教えをかたくなに守り、神に命を殉ずることを決意した52人のうち、11人は15歳以下の子供。十字架に縛られたキリシタンを燃やす大きな炎は、京都の夕暮れの空を焦がした。

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 京都大殉教は日本のキリスト教史で「三大殉教」に数えられている。51人が処刑された長崎殉教(元和8=1622年)では、全員が列福、すなわち聖者に次ぐ「福者」の称号が与えらている。50人が処刑された翌年の江戸殉教でも、3人の宣教師が列福された。

 京都の52人は同時期に各地で命を落とした殉教者たちとともに、長らく光が当てられていなかった。

 彼らの列福の機運を高めたのは前ローマ法王、故ヨハネ・パウロ2世。昭和56年に来日した折、列福されていない殉教者について触れ、その「恵み」に祈りをささげたのがきっかけだ。

 日本のカトリック教会が委員会を組織して本格的に調査を開始する中、京都大殉教について詳細な調査を行った1人が、スペイン出身で日本に帰化した司祭、結城了悟氏だ。その報告書は、400年近く前に起きた悲劇を生々しくよみがえらせている。

 処刑場までの道中、引き回されたキリシタンたちは声を合わせて賛美歌を歌ったという。テクラ橋本という妊娠中の女性は、娘を抱き上げたまま、足下にしがみつく2人の息子とともに十字架に縛りつけられ、隣の十字架にも2人の子供が縛られていた。

 火あぶりの薪は十字架と十字架の間も埋められるほど膨大な量だったが、信者たちの長い苦しみを少しでも避けようとする勝重の配慮だったとしている。

 殉教者たちの遺志をくんだ結城氏ら現代の「キリシタン」たちの思いをくんだローマ法王庁は平成19年6月、宣教師5人と京都の殉教者52人を含む183人の列福を決定。先月24日、長崎市で列福式が行われた。

 そして式の1週間前、殉教者たちに福者になることを報告するように、結城氏は天国へと旅立っている。(渡部圭介)

 ■京都大殉教 徳川秀忠の命により、鴨川の六条河原で52人の信者が火あぶりとなった集団処刑。当時の記録によれば、ほとんどが町民だった。テクラ橋本は叫ぶ子供の頭をなでて慰め続け、死んでもなおその腕に娘を抱き続けていたという。11月に長崎で行われた列福式では、マカオへの追放後2年かけて徒歩でローマ入りした「世界を歩いた神父」ペトロ岐部や、天正遣欧使節の一人、ジュリアン中浦、「大阪最後の宣教師」ディオゴ結城らも列福されている。

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