2008年08月25日(月) 12時48分
科学実験の場となった63年目の広島で(オーマイニュース)
「茨城県の日立市にも原爆が落とされるはずだった」と、いう話を祖父から聞いたことがある。もしも落とされていたら、近くで暮らしていた祖母たちは被爆し、もしかしたら私はこの世に存在しなかったかもしれない。それが私と原爆を投下された広島、長崎とを結ぶ線だった。
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けれど、大人になって日立市に原爆を落とす計画があった、という事実は、どう調べても出てこなかった。祖父はどうしてそんなことを言ったのだろう。この世に祖父はいないので、もう聞くことはできない。
パンプキン爆弾の話を聞いた。カボチャに似ていたから「パンプキン」と呼ばれた爆弾は、かわいらしい名前とは裏腹に、原爆投下を成功させるために作られた模擬原爆のコードネームだった。そして、そのパンプキンが、日立市にも投下されていたことを最近、知った。
祖父はそのことを指して言ったのだろうか。いや、パンプキンの存在は、1991年、愛知県の「春日井の戦争を記録する会」が国会図書館にある米軍の軍事資料の中から発見するまで存在すら知られていなかった。なので、生前の祖父は知るよしもない。
「8月6日「ひろしま」が遺したもの」の記事を書いた後、私は、「広島へ行ってみたい」と思ってしまった。何かに突き動かされるような衝動があり、そんな気持ちは久しぶりだったので、ならば素直にその感情に従おう、と思った。そして、私は、その日のうちに高速バスの予約を取り、8月6日を待った。
■8月6日 晴れ リトルボーイ
8月6日は、嫌なくらいに晴れていた。空は雲ひとつない青空で、早朝から太陽はぎらぎらと照り続け、じっとしているだけで汗が流れてきた。
On August 6, the sky over Hiroshima was clear.
The city's fate was sealed.
8月6日、広島の天気は晴れ。
広島の運命は決まりました。
広島平和記念資料館でこのアメリカ軍の報告資料を読んだときは、胸が痛んだ。8月6日午前7時15分、アメリカ軍の気象観測機が広島の天候を確認。午前8時15分、原子爆弾リトルボーイは、人類にむけて初めて投下された。
資料館では、なぜ原子力爆弾は作られたのか、なぜ日本に、そして広島に投下されたのか、という経緯を1942年「マンハッタン計画」(原爆製造計画)から順に知ることができた。自分の中で抜け落ちていた視点だったので、かなりいろいろなことを考えさせられた。
中でも原爆投下地の選定は、爆風で効果的に損害を与えることができる地域をピックアップし、投下3カ月前には原爆の効果が正確に測定できるようにリストアップされている都市への空襲を禁止していたという史実は、ショックだった。
パンプキンを説明する展示もあった。原爆投下の練習をするために日本各地で投下されたパンプキンは、長崎の原爆と同量型の爆弾だった。1945年7月から 8月にかけて30都市に49発も投下され、400人以上の死者を出している。日立市へも7月20日と7月26日に投下されていた。またパンプキンは、広島・長崎で原爆が投下された後も、終戦前日の8月14日まで投下され続け、訓練結果をデータとして残している。
■広島の日常会話から
資料館から移動をして、広島市現代美術館へ行き、戦前から現在までの原爆ドームの写真アーカイブを編集、映像化した、ジャン=ガブリエル・ぺリオの「20万の亡霊」という作品を観にいった。
そのとき、作品を見ていた年配の女性が
「被爆した当時の写真がこんなに残っていたんですね」
と、居合わせた女性に話しかけているのを見かけた。
話しかけられた女性は
「広島は原爆の科学実験の場にされたから、記録として撮られて残っている写真が多いんでしょう」
と強い語調で答えていた。そして、
「実は、私、被爆しているんです。幸いにも生き残ったんですけど」
と言った。すると、話しかけた方も
「実は私も被爆してるんですよ。すごく小さかったから覚えていないことも多いんですけど」
と返していた。
正直、私は、動揺してしまった。思いもよらない場所(=美術館)で、なにげない日常会話の中で「被爆体験」の話が交わされている。私は広島にいるんだ、ということを実感させられた。2人に声をかけてみたい気もしたけれど、どうしても話かけられなかった。
「科学実験の場にされた」という言葉が、資料館で得た情報とともに、生々しくもずしりと心に残った。
(記者:柳川 加奈子)
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