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2008年08月23日(土) 00時00分

(中)創設者死後に一変読売新聞

 小諸市の「大和紀元会館」の大会議室は、国会議事堂の本会議場と似た造りになっている。2002年5月、紀元会の会員300人以上が、この部屋に集められた。紀元会の創設者・松井健介氏が死亡した3か月後のことだった。

 会員の席と向かい合って数段高くなった所に、健介氏の三女で、後継者の「総裁代行」となった松井五十鈴氏(36)が座り、そこより一段低い席には、健介氏の二女、窪田康子被告(50)(傷害致死罪などで起訴)ら幹部が陣取った。

 当時、最高幹部の一人だった男性(79)は、幹部と会員の席に挟まれた床に一人、正座していた。

 「皆さん、何か言いたいことあるでしょう。遠慮はいらない」。窪田被告の呼びかけをきっかけに、会員らが次々と、男性への不平を口にした。「仕事が忙しいのに呼びつけられ、神社の仕事をさせられた」「せっかく出向いたのに、年寄りは呼んでないと言われて傷ついた」——。

 男性は床に手をつき、会員たちに謝った。「自分が悪いことをしたのなら、謝るのは当然」と思った。

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 記念誌「紀元会 二拾年の歩み」(1988年発行)などによると、妻の実家のある小諸市で「手かざし」による病気治療をしていた健介氏は67年、神の声を受け、「天然の無菌水」で、「世界全人類を病から救う」という「紀元水」を発見した。

 70年、リンゴ畑だった現在地に、「全世界の神に命令権をもつ」という「日之本大神」を主神とする大和神社を建て、信仰する者の団体「紀元会」を宗教法人として登記した。会員は飛躍的に増え、70年代後半には1万世帯になった。設立当初からの女性会員は「和気あいあいとお茶を飲みながら楽しく話しているうちに、どんどん人が集まってきた」と振り返る。

 元最高幹部の男性も、手術で治らなかった腹痛が「紀元水を飲んで治った」ことから、設立3年目に入会した。家族全員が会員になった。

 健介氏からは、人には「かしわもちを扱うように」優しく接するよう教えられた。会では、他人に注意する場合も、「相手に恥をかかせないように、誰も見ていないところで注意していた」という。

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 健介氏の死後、会の雰囲気は一変したと、男性は考えている。

 元々、「生活と信仰は車の両輪」とされ、信仰が負担になりすぎないように、「勉強会」も幹部を対象に年1、2回開かれるだけだった。それが、一般会員も対象に毎週行われるようになった。かつては、健介氏から教義を教わる場だったが、会員同士で欠点を言い合う“総括”の場となった。

 03年ごろ、男性の娘婿は「(窪田被告から)『(男性と)話せば、命を落とす』と言われた」と言って、娘と孫を連れて家を出た。そして、04年、男性は会を去った。退会者は相次ぎ、昨年の集団リンチ事件当時の会員数は、約500人(同会が記者会見で公表)にまで減っていた。

 奥野元子さん(当時63歳)が集団リンチを受けた場所は、男性が5年前に土下座したのと、同じ建物の中。男性は今では、あの日の出来事を、「自分を追い落とせば、逆らう者がいなくなるという狙いだったのでは」と考えている。

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8月23日の連載「紀元会(中)」の記事で、同会元幹部の男性の娘と娘婿、孫の3人が家を出たのは06年、男性が退会したのは05年でした。娘婿の発言で「(窪田被告から)『(男性と)話せば、命を落とす』と言われた」とあるのは誤りで、娘婿らが家を出たのは別の理由でした。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/feature/nagano1219482686839_02/news/20080823-OYT8T00546.htm