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2008年08月21日(木) 16時07分

福島県立大野病院事件(後)〜事件をどう見るかツカサネット新聞

福島地裁(鈴木信行裁判長)は20日、業務上過失致死と医師法違反罪に問われた医師、加藤克彦被告に無罪(求刑禁固1年、罰金10万円)を言い渡した。

判決では、加藤医師が女性の癒着胎盤をはがした判断と行為について「胎盤をはがさずに子宮摘出に移れば、大量出血は回避できた」としながらも、「胎盤をはがしはじめたら、継続するのが標準的医療。はがすのを中止しなかった場合でも具体的な危険性は証明されていない」と述べ、過失にあたらないとした。異状死の場合、死亡後24時間以内に警察へ届けなければならない医師法違反にも問えないとした。

さて、医師、というより医学側は、この件で「結果」を医師個人に対して刑事事件で裁くことを批判しているが、Web掲示板では必ずしも全ての書き込みがそれに賛成というわけではなく、刑事事件として適当かどうかを含めて、疑問や異論なども出ていた。

誤解や悪意もないわけではないが、だからといって頭から「天の邪鬼」「医学に無知」と決めつけず、それらも含めて是々非々できちんと判断することは患者になりうる国民の理解や合意を得、明日の医学・医療につながるものだと思う。

たとえば、はじめから子宮を取ってしまうべきという意見は、判決公判を迎える前からあった。鈴木裁判長が「胎盤をはがさずに子宮摘出」の点に言及したのは、そうした意見が無意味なものでも非現実的なものでもないことを示している。

だが、残念ながら、医師側、たとえば声明を出している産婦人科医会に対して、筆者はこの疑問を向けたものの、答えてもらえなかった。自分たちの主張「だけ」しかしないという体質や方法論が問われているのがわからないのだろうか。事故報告書にも、家族に対する配慮が欠けていたことが書かれているではないか。

Web掲示板の議論も、医師を擁護する側の主張においてその点はやはり曖昧であり、筆者はこの点で今も大いに疑問と不満が残る。一方的に自分の主張をするだけでは、患者側になりうる大衆を広範に得心させにくくするものではないかと思うし、また同じことが起こるかもしれないと心配するのは当然だろう。

事故報告書によると、大野病院の場合は、亡くなった女性が「子宮温存」や「大野病院での手術」を希望したため、医師側は女性の希望に添う方向で処置。それが対応の遅れにつながったとされる。患者の意向を尊重するのは心優しく立派な見識ではあるが、それが最悪の結果になったわけだ。

大野病院は、たとえば東京の大学病院のような規模で「手術応援」ができるところではないことは明らかだった。ならば、それをわきまえて、母体の生命優先という立場から、できることとできないことをあらかじめはっきりさせることはできなかったのか。刑事罰に値するかどうかは別として、やはり担当医というより病院が今回考えるべきことは多々ある。

ただ、それだけ強い態度に出られなかったのは、つまるところ、その背景には医療費の問題や、産科医や産婦人科不足、さらにいえば自民党政権がこの四半世紀の間行ってきた医師不足の状態を作りだした政治がある。

最近は分娩難民などという言葉さえ生まれているが、ここ1〜2年で急に生じた現象ではない。妊婦はここの病院が嫌ならあっちで生みましょう、と病院を好き勝手に渡り歩くことができない現状がある。もとより、出産は自由診療であり、病院を選ぶ際にはお金の問題が先立つ。福島の現状を正確に把握しているわけではないが、東京の場合、どこの大学病院であろうが助成される公費だけでは健診は受けられない。健診を受けなければ病院は分娩は引き受けない。医療を語るにも政治やカネを切り離すことはできないのだ。

女性側が悪いのか、担当医が悪いのか、の議論ばかりに熱中していないで、なぜ、担当医が患者の「厳しい」願いに応じなければならなかったのか、なぜ、女性は大野病院でなければならなかったのか、という背景を議論する方向に進まなければ、女性もうかばれないし、担当医の苦悩も今後につながらないだろう。

いずれにしても、これを教訓として、処置のガイドラインを病院の施設やスタッフといった実情から詳細に見直し決めて行く必要があると思う。

素人の分際で一言言わせてもらえれば、子宮を相手にする手術で、輸血が遅れるなどという「報告」はやはり個人的には戦慄が走る。ひとたび出血すれば、あっというまに文字通りじゃぶじゃぶ血の海になることは医師ならわかるだろうに。万が一のために十分すぎるほど十分な用意をするのは当然ではないのか。

前置胎盤は癒着胎盤の可能性がある。「頻度は高くない」(報告書より)などと侮らず、今後はこのリスクをもっともっともっと慎重にとらえてはもらえないものだろうか。全国の前置胎盤の妊婦が今回の事故報告書を見たら、おそらくは全ての人が不安に陥ることだろう。医師は、数字や自分の技術を過信せず、患者の顔や心もきちんと見て欲しい。

『AERA』(8月25日号)では、起訴は検察の功名心と手厳しく断罪しつつも、医療界全体の透明性と自律性の低さが、捜査機関の介入につながっているとする都内私立大医学部の麻酔科教授のコメントも紹介している。

「医師が問題を起こしたとき、たとえば免許停止などの処分をし、自律性を見せられれば国民から信頼される職能団体になる。その機能がないため、刑法が透明性を高める役割を果たしてしまっている。医療界として自律的懲戒機能が必要だ」

これも関連学会の課題である。いずれにしても、「不当逮捕」と自分の側からの主張を叫ぶだけでは解決にはならないということだ。

もうひとつ、逮捕・有罪が産科医の意欲を失わせる、なり手が減少する、ハイリスク妊娠は敬遠される、といった主張に反発する意見も多い。

医師側の、女性の願いに答えようという善意の結果が刑事罰になっちゃ、たまんないという気持ちはわからないではない。しかし、そこをあまり強調することで、ともすれば、医療行為は逮捕や起訴とは無縁の「治外法権」にしないと仕事をしないとゴネているようにも聞こえてしまうのだろう。その点は、たぶんに誤解もあるとは思うが、現実にそう反発する意見がある以上、医師側は考える必要もあると思う。

損な役回りの仕事というのはよくわかるが、医療ほどはっきりは出なくても、理不尽とも言える客の要求に対する善意の判断が、裏目に出て客を傷つけ、ときには命にも関わりかねない「きわどい」仕事は医師だけではない。製造業も、交通機関も、マスコミも、みなそうしたリスクを抱えながら、キザに言えば社会正義や使命感をもって仕事をしている。むしろ、医師はこれまで、医事紛争では専門家しか判らないとされる韜晦的な分野であるために、裁判ではさんざん有利な戦いをしてきたのではないのか。今回が「医療全体の萎縮を招く」という可能性があったとしても、だから、逮捕・起訴が絶対にあってはならないと頭から否定することには賛成できない。医療ミスの中には、逮捕すべきことだってありうる。

加藤医師の支援活動をしてきた上昌広・東大医科学研究所特任准教授は判決後、「今回のような医療事故を法廷で真相究明することの限界が明らかになった。当時の医療体制の根本的な議論がないまま、医師の過失の有無だけの争いとなっていた。これを機に医療事故における業務上過失致死罪の適用について国民的な議論が必要。司法関係者も、医療事故に刑法を適用することの是非をもっと議論すべきだ」とコメントしている。

もっともなことだが、もし、それを問題とするなら、医学・医療固有の問題とするのではなく、先に述べたような「きわどい」仕事全体をも視野に入れた問題として取り組む方向性を示して欲しいというのが筆者の思いだ。

要するに、医師側には、この事件を、「オラが村社会を守りさえすればいい」という小さな利己的視点ではなく、もっと社会全体に得心してもらう運動にすべきである。各分野の紛争における訴訟、とりわけ刑事罰に対する国民の合意形成を明確にして行くという立場で議論を求めて欲しい。

たとえば、(前)で書いたように、この事件の前年には出版社社長の「名誉毀損」逮捕があったが、劇場型逮捕という点で共通点があった。

世の中は、ある分野だけが特化するということではなく、大なり小なり全てのジャンルに特定の傾向を見て取れるものだ。様々な分野の人々が尊重しあい手を携えれば、自分たち「だけ」の世界からは見えなかったものが見えてくることがある。医学固有の問題とともに、医学だけではない問題をも見据えなければ問題の全体像は明らかにならない。

おそらく、医師側の良心的な人々は、それらのことはわかっているが、今回は裁判そのものを問題にしているので問題全体を十分に語れないのだろうと筆者は解釈している。今後、その解釈が裏切られないことを願うものである。


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(記者:人)

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