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2008年08月21日(木) 11時50分

「勝利至上主義」の世界柔道に日本の選択は?オーマイニュース

 私は、幼いころからスポーツ好きで、そのころは1年中、朝から晩まで外で暴れまくっていた。しかし、今はスポーツができない身体になってしまったため、もっぱらテレビ観戦を楽しんでいる。

 自他ともに認める「スポーツ馬鹿」であったことが影響したのか、私はスポーツの試合での勝敗にはもちろんこだわるが、それ以上にその試合の内容のほうに、より強く関心が沸いて来る。

 例えば、私は大のジャイアンツファンだが、ジャイアンツが他球団に10対0で圧勝しても、試合の内容がワンサイドで、緊張感がまったくなければ「あぁ、勝ったのか」で終わってしまう。

 つい先日、今、開催中の北京五輪で「柔道」の競技がすべて終了した。

 そして、私は今回の柔道競技を見て強い不満と、将来の「日本柔道」に大きな不安感が沸いてきた。

 今回の試合を見られた方であれば誰しもがそう思うだろう。多くのメディアや解説者も今後の「日本柔道」に対し、大きな懸念を抱いていた。

 日本の国技である「柔道」が、世界の「JUDO」になったことに起因している。柔道が世界中に広まったことは喜ぶべきだ。このことにより柔道以外の日本の文化も世界に広まり、「日本柔道」のレベルアップにもつながると思われていたからだ。

 ところが、北京五輪以前から、「柔道」が「JUDO」に変わり、これは、レスリングじゃないかと思われるほどの技や組み手が見られるようになった。特に男女ともに軽量級から中量級に多く見られるようになった。

 当初から現在に至るまで、「技」を重視して一本を取りにいく「日本柔道」に対して外国人選手はなかなか勝てなかった。そのため日本人より体格、腕力に勝る外国人は(特に白人、黒人)選手は、「技」でなく「力」で相手を倒し、投げ、押し伏せるという戦法を採らざるを得なくなってしまった。

 私が見ていて最も落胆したのは、試合が開始されるとまず、両者とも相手の襟、袖を取りにいくこと。そして、両者が組み合うと次の瞬間には、頭と頭を付け合い、押し合う。レスリングではそれで良いのだが、柔道でそのようになると、両者は、腰を引き、上半身を折り、前かがみになる。そうなると、柔道の醍醐味(だいごみ)でもある足技を掛けようとしても足は届かない。そのため、選手は、力任せに相手をねじ伏せ寝技に持ち込むようになる。

 このような光景に、真の柔道の醍醐味も面白さをまったく感じなかった。しかし、大変残念だが、このような戦法はルール違反にはならない。ルール違反にならないということは、勝つための戦法として正当化していると言われても仕方がない。

 「オリンピック出場は勝つことでなく、出場することに意義がある」という有名な言葉がある。

 たしかに近代オリンピックの礎を築いてくれたクーベルタン男爵が唱(とな)えたその言葉の意図は、「世界中で戦争や紛争が起きていて(当時)、それをひと時の間でも休ませ、世界中の人が皆、1つのことを目指し、手を取り合い、友になろう」ということだった。

 しかし、オリンピックがこれだけグローバル化された現在、国内のいくつかの予選に勝ち、競技によってはさらにアジア予選、欧、米予選とあり、何度も勝負に勝たなければひのき舞台には立てないのだ。

 そのひのき舞台に立てば、選手によっては、国、国民、国旗、支援者などの期待を重く背負ってしまう。その人たちの願いは、その選手がオリンピックに出場することではなく、勝負に勝ち、メダルを持って帰ってきてほしいということだ。

 そのため、選手の多くは、クーベルタン男爵の意に反し、「勝利至上主義」に走らざるを得ない。

 今の「勝利至上主義」の中にいる日本柔道界は、今後、世界に勝つためにどのようなかじ取りをしていくのだろうか。勝利をつかむために、「日本柔道」のスタイルを変えるのもしゃくに障ることだろう。

 最後に、私の思いとしては、将来の日本柔道界においても、「柔能(よ)く剛を制し、剛能く柔を断つ」の精神を貫き、その心と技を後世に引き継いでもらいたい。

(記者:青柳 茂雄)

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