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2008年08月15日(金) 11時39分

平岡熈(ひろし)を知っていますか(3)〜アメリカに渡った悪童が見たものオーマイニュース

 私の掘り起こした平岡熈(ひろし)のプロフィールを紹介しよう。

 熈(ひろし)が米国に渡ったのは、明治4年(1871年)。数えで若干16歳。天衣無縫、茶目っ気があってイタズラ好き。近所で迷惑を受けた人たちにとっては、「悪童」だった。

 こんな時代になぜ彼が渡米できたのか。それは彼の父親、熈一(きいち)が維新前、徳川御三卿(=一橋家、清水家、田安家)のひとつ、田安家の家老にまで出世していた人物だったからだ。

 父・熈一は維新後は、もうひとつの御三卿、清水家再興のために尽力していた。清水家は幕末、相続問題の不手際から幕府のひんしゅくを買い、お家断絶同然となっていた。その再興のため、清水家の内情に詳しい田安家の元家老、熈一に、協力依頼が回ってきたのだ。

 このとき、清水家の当主、篤守(あつもり)が米コロンビア大学(ニューヨーク市)に留学するという話を熈一は聞いた。「ちょうどいい機会だ。この際、息子・熈(ひろし)も供として一緒に留学させよう」と熈一は考え、清水家に相談した。

 すると、「お家再興の尽力に対し、以前から礼をしたいと思っていた。渡航費の一部も援助したい」とまで言ってくれた。ラッキーである。

 父・熈一は、息子・熈(ひろし)の悪童ぶりに手を焼いたようで、英才教育というだけでなく、未知の世界に放り出せば少しはおとなしくなるだろうという考えもあって、留学させたようだ。

  ◇

 さて、熈(ひろし)は渡米し、人生を変える2つのものと出合った。

 ひとつは、蒸気機関車。サンフランシスコに上陸した彼は、サクラメント(カリフォルニア州州都)からニューヨークに向った。2年前、1869年に開通した大陸横断鉄道に乗り込んだことで、この巨大で力強い乗り物にすっかり魅せられてしまったのだ。

 もうひとつが、ベースボールだった。熈(ひろし)が留学した1871年は、くしくも初のプロリーグ、ナショナル・アソシエーション・オブ・プロフェッショナル・ベース・ボール・プレイヤーズ(NAPBBP)が結成された年でもあった。

 留学先の地元チーム、ボストン・レッドストッキングス(現在のアトランタ・ブレーブスの前身)は、その翌年から4年連続優勝を成し遂げる強豪チームだった。このチームには名投手、アルバート・スポルディング(スポーツ用具商スポルディングの創業者)が在籍していた。スポルディングはひろしの6歳年長だった。

 初等学校を1年半で卒業し、ハイスクールを3か月で中退した熈(ひろし)は、機関車製造工場の工員として働き、そこの仲間たちとベースボールに興じた。彼は主に投手としてチームのレギュラーになり、地元ではなかなかの人気者だったようだ。工員としても優秀で、後にフィラデルフィアの大会社からスカウトされるほどだった。

 やがて、鉄道技師としての技術を身につけた熈(ひろし)は、明治9年(1876年)、帰国の途につく。数え歳21歳。5年間の留学生活の間に、立派な青年に成長していた。

 初等学校時代にボストンを訪れて面識のあった伊藤博文の口利きで、翌々年の明治11年(1878年)、新橋鉄道局勤務になった。新橋駅勤務の職員を集め、いよいよ、日本初の野球クラブチーム「新橋アスレチック倶楽部」を立ち上げることとなる。今からちょうど130年前だ。

(記者:鈴木 康允)

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