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2008年08月08日(金) 00時00分

(10)日本の人情中国でも共感読売新聞

 「我寅次郎生於東京的葛飾柴又、是帝釈天的水把我養大(私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい)……最初のセリフ、今でも覚えている」

「男はつらいよ」の吹き替えが行われた長春映画撮影所の録音室で、当時の思い出を語る劉大航さん

 中国語で口上をそらんじてみせるのは中国吉林省・長春映画撮影所で翻訳作品の監督を務める劉大航(りゅうたいこう)さん(49)。国営中国中央テレビが2003年から04年にかけて放映した「寅次郎的故事(男はつらいよ)」全48作で、声優の配役から吹き替えまでを取り仕切った。

 「目を閉じても彼の姿を思い出せる。腹巻きをし、帽子をかぶり、大きなカバンを手に提げ……」

 紛れもなく、寅さんを最もよく知る中国人の1人だ。

 1980年代、同シリーズの一部が中国で劇場公開された際、「浪花の恋の寅次郎」(第27作)と「口笛を吹く寅次郎」(第32作)の2作で、さくらの夫、博の声を演じたのが作品との出会いだった。まだ20歳そこそこの駆けだし声優だったが、これが縁となり約20年後、テレビ放映用の重任を託される。ギネスブックに載った世界最長シリーズの吹き替えは1年以上を要したが、「中国の映画史上に残る試みで、翻訳監督にとっての栄誉」となった。

 「彼(寅さん)は社会の底辺にいる善良な人物。人助けが好きだが、時に誤解を受け、笑いものになる。特に女性との恋愛は失敗ばかり。我々の周りにもこんな人がいる」

 「家族に止めてほしいと願いつつ、旅に出る。そしてある日突然、『おばちゃん帰ってきたよ』と。陰では妹のさくらが質入れまでして兄を支える。家族の情から離れて暮らすことができないのはみな同じ」

 背広を肩にかけるそぶりまで交え、額に汗を浮かべながら語り続ける劉さんの言葉は、寅さんがすんなり海を越えたことを教えてくれる。

 口上付きの“啖呵売(たんかばい)”も、かつては北京などの日常風景で、中国漫才にもしばしば登場する庶民文化の一つ。「全く違和感は感じない」のだ。

 寅さんの「面子(めんつ)」も中国人には見逃せない一面だ。中国人が人間関係において最も重視するのが面子なのである。

 「金がなくとも『大もうけをした』と土産を持ってくる。貧しい者ほどメンツにこだわる。自分に自信がないため、人からバカにされるのを恐れるからだ。これは個人から国のレベルまで同じ」

 寅さんが初公開された80年代の中国は、家族や師弟の関係がずたずたに切り裂かれた文化大革命(1966〜76)の悲惨を経て、ようやく平穏な暮らしを取り戻し始めた時代。劉さん自身も「知識青年」として農村に送られ、過酷な労働を課せられた経験を持つ。寅さんを中心とした平凡な家庭のごく身近な人情劇は、人々のすさんだ心にすうっと入り込み、暖かな火を灯(とも)したに違いない。中国の寅さんファンは、文革を経験した40歳代以降に多いという。

 「英雄」を社会の模範としてたたえ、それに学ぶことを求める宣伝色の強い旧来の作品とも全く違う。「何のスローガンを用いることもなく、社会が進歩し、生活は忙しくなっても、人情を忘れてはいけないことを自然に教えてくれた」。劉さんの作品評は、中国人自身への問いかけとして重く響く。

 その後の中国社会は、改革開放政策の下、猛烈な勢いで市場経済が浸透していく。田園風景が破壊され、所得格差が拡大し、多くのものが失われていく中、人々は懐旧の情を抱き始める。テレビでの全作放映はまさにこうした時期と重なる。「シリーズが終わった時、再放送を求める声がたくさんあった。もう一度放映したら、きっと40歳過ぎの寅さんファンがテレビにかじりつくだろう」

 久しぶりの寅さん談議で興が乗ったのか、劉さんが「48作を吹き替えた録音室に案内する」と誘ってくれた。「壁を厚く作ってあるから防音も断熱もしっかりしている」。話に耳を傾けながら、同撮影所が1937年、旧満州映画協会によって建てられた歴史に思いをはせた。正面の碑には「日本軍国主義を宣揚し、侵略戦争を美化する映画を撮影した」と記されている。

 戦後は抗日戦争に題材を採った作品も制作され、体制の近い旧ソ連の映画を多数翻訳した。そんな場所で、寅さん一家のドタバタ劇が吹き替えられていた——。奇縁と言うべきか。中国東北の夏空に寅さんの旅姿が映えて見えた。(中国・長春で 加藤隆則、写真も)

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231217264378697_02/news/20080808-OYT8T00076.htm