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2008年08月08日(金) 17時52分

風力発電発祥の地、伊平屋島の8月オーマイニュース

 正午に天皇の玉音放送があった日の夕方、第五航空艦隊司令官宇垣中将は多くの若者を特攻へ送った自責の念に耐えられず、自らも特攻で散華するために中津留大尉以下22名の隊員たちと共に、艦上爆撃機彗星11機で大分基地から沖縄に向けて飛び立つ。そのころ伊平屋島の米軍泊地では、日本降伏の知らせにわきかえり戦勝パーティーで大騒ぎしていた。灯火管制も解かれていた。

 昨年亡くなられた作家城山三郎氏の著書「指揮官たちの特攻」によると、中津留大尉は急遽(きゅうきょ)目標の泊地を避けて近くの海岸に落下した。僚機もこれに続いている。飛行中に終戦の事実を知らされて、自分たちの行為のもたらす事態の重大さに気付いたためという。

 特攻機の機内の記録はないだろうから、この部分は城山氏の創作だろう。しかし氏が指摘されるように、もし中将の意図が成功していたら日本は開戦時の真珠湾攻撃に加えて、終戦時にも降伏後のだまし討ち(彼らの言うスニークアタック)を重ねるところだった。日本人一般に対する国際的印象を著しく悪くして戦後処理に影響し、日本のその後の平和と繁栄は消し飛んでいた可能性が強い。

 伊平屋島はあの時、実に重大な歴史の岐路にあったことになる。最後の特攻機・宇垣中将最期の場所といえば、われわれから上の年齢の者にはインパクトがある。特攻機や中将・大尉の像などで、戦争の悲惨をアピールする記念碑を設置すれば、多くの人を引き付けるのではないかと思う。

 日本復帰前の琉球(りゅうきゅう)政府電気課におられた池間正雄氏は、中古発電機をもとにして風力発電装置を開発した。プロペラは自分でツーバイフォー角材を削って作った。1957年それを伊平屋島の離れ小島・野甫島に設置して、沖縄で初めての風力発電による村営電気事業として稼働させた。

 その据え付け工事の現場に本土出身の方が見に来られた。終戦間際に撃墜されて伊平屋島近海に不時着して島に泳ぎ着き、そのまま定住された元特攻隊員だった。池間氏はプロペラ軸に油圧リンダを兼ねさせることによって、装置をコンパクトにまとめ90度可変ピッチを可能にした。ドイツのアルガイア・フュッター機から着想を得たという。もと特攻機パイロットとの間で、どのような会話が交わされたのだろうか。

 翌年に軍票B円からドル通貨への交換を控えたその年の4年前に、米国民政府ユースカーが米軍基地向けに牧港発電所を建設して以来、その余剰電力を民間に供給するために、各地で配電会社の改廃が進んでいた。これがほぼ一巡して本島では電力の供給体制が整っていたが、多くの離島には電気の恩恵が及んでなかった。

 池間氏は、本島からの送電ができない離島でも分散型電源で燃料費の要らない風力発電を使えば、電気の供給が可能になるとしてこれに取り組んだ。初めての電気の光に野甫島は喜びに沸き、感激した島の校長先生が電気文明をたたえる歌を作って、生徒や島民に歌わせた。

 その後池間氏は同様の装置を座間味島の高月山にも設置して、離島電化に活路を開いていった。しかしちょうどそのころからアラブの石油が世界中に安く出回るようになり、沖縄の離島電化もディーゼル内燃力発電で進められることになった。野甫島や高月山の風力発電も内燃力に替えられた。

 それから十数年後に起こるオイルショックが、風力発電を再び世の中に引っ張り出す。当初は既存の技術秩序に固執する一部の役人や技術者たちから白眼視される傾向(台風対策としての離島電線地中化が今ちょうど同じ状況にある)があって、普及は遅々として進まなかった。しかし石油需給の逼迫・環境問題の深刻化が、これら新撰組的な人たちのはかない抵抗を押し流していった。

 風力発電のその後の普及はすさまじく、過去10年間で世界の出力合計は10倍になり今も加速度を増して拡大し続けている。予想を超える展開に、政府の導入目標も「2010年までに30万Kw」から「2010年までに300万Kw」に修正された。風力発電の今日の発展を見るにつけ、50年前の池間氏の取り組みを思い出す。

 沖縄の風力発電発祥の地である伊平屋島の野甫地区に、池間1号機を復元してその功績を顕彰すれば、温暖化問題への関心が高められるとともに、最後の特攻機と同じように観光目玉にもなって地域活性に役立つ。伊平屋村か池間氏の出身地である宮古島市の郷友会あたりで、御検討頂けないかと思う。2004年1月、池間氏が逝去された。享年80歳。地上の星はついに天の星になられた。

(記者:大城 洋)

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