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2008年08月06日(水) 13時34分

読者レビュー◇中山伊佐男著 『ルメイ・最後の空襲』(上)オーマイニュース

 毎年8月になると、先の戦争を扱う番組が増える。

 6日の広島、9日の長崎、15日の玉音放送……。戦争を体験していない人間があれこれと発言する。ある人は「戦争が終わった」と表現し、「負けたのではない」と付け加える人もいる。逆に、「戦争に負けた」という言い方をする人もいる。

 「終わった」と言おうが「負けた」と言おうが、多くの人が空襲で死んだことは同じである。戦争を生き抜き、亡くなった人への想いと爆弾を落とした者への怒りを、人類の未来へと昇華させようする人たちがいることも変わらない。

 膨大な米軍マイクロフィルム資料から富山大空襲(および同日に行われた他の都市の空襲)を解読したこの本からは、そんな想いが伝わってくる。

   ◇

 「富山大空襲」といっても、ピンとこない方が多いだろう。私もそうだった。この本の資料と解説から要約しよう。

 米国・第20航空軍は、1945年8月2日、八王子・富山・長岡・水戸の市街地を空襲、さらに川崎市のコンビナートの空襲と機雷投下を行った。富山には、 176機の爆撃機から111分で12781個、1465.5トンの焼夷弾が落とされた。これは1分で115個、1秒で2個にあたる。

 米軍が設定した攻撃目標範囲の99.5%が破壊された。米軍の計算はこうだ。富山の目標市街地は「1.88平方マイル」。1平方マイルの必要トン数は225 トンなので、その1.88倍(423トン)が必要となる。目標円内に投下できるのが40%、爆撃参加に失敗する率を10〜15%と見積もると、爆撃機に積み込む焼夷弾の必要量は1244トン。ここから180機という機数が割り出された。

 この部分を読みながら、評者は、アフガニスタンやイラクへの“ピン・ポイント攻撃”を思い出した。

 日経サイエンス(2003年4月号)の記事『戦争を変えるGPS兵器の全貌』に「最も一般的なGPS誘導兵器の場合、標的地点の半径約12メートル以内に50%の確率で着弾する」という一節があるのだ。

 軍隊というものが、攻撃の効率を第一に考えるのは変わりようのない現実なのだろう。

   ◇

 富山を空襲した第73航空団は、往路の2カ所で対空砲火を受けたが、途中では「貧弱、不正確な重高射砲」、富山上空の「防空砲火はかなり貧弱で、不正確、中高射砲から重高射砲(大部分は中高射砲)」であり、「損失機はな」く「爆撃を行った173機のうち、1機すなわち0.58%だけが対空砲火による損傷を受けた」

 戦闘機による防空は、4都市で「105ないし130機(中略)が発進した」が「反撃は、僅か12回だけ」と報告、「多数の戦闘機が離陸したのに攻撃回数が少なかったのは、日本側が故意にB29との接触を回避したか、または戦闘機の操縦士が未熟だったのか、ということを示している」と分析している(富山では5機・攻撃回数は0回)。

 『失敗の本質』(戸部良一ほか・中公文庫)や『この国の失敗の本質』(柳田邦男・講談社)などで、日本軍の報告や分析が不十分で不正確だったことが指摘されている。

 どの国でも軍の報告書は自軍に都合良くなりがちと思うが、米軍の報告書には「きわめて貧弱だが正確・重高射砲」、「中等度で不正確な中高射砲」、「貧弱だが正確な中高射砲」といった記述があり、基準の存在がうかがわれる。優勢な状況からくる余裕かもしれないが、軍事に対する米国の冷徹さだろうか。

   ◇

 著者の中山伊佐男氏は、15歳で富山大空襲に遭い、母と妹を失いながら生き延びた方である。あとがきに、この資料と解説をまとめた想いが書かれている。

 (前略) 8月4日か5日、母と妹の遺体を焼いた。その経緯が前述の本(評者注:『八月二日、天まで焼けた』高文研)になったのだが、私にはどうしても解けない疑問が残っていた。何のために母たちは焼き殺されねばならなかったのか。無辜の市民に向かって凄まじい焼夷弾の雨を降らせた側から、あの日をもう一度見直してみると、どうなるのか。かろうじて命をとどめた私は、異形の死を遂げた3000人余の人々に、そのことを何としても報告しなければならない。(179ページ)

 この点について、資料は何を語っているだろうか。

(下につづく)

桂書房刊
本体2800円(税別)
1997年8月

(記者:佐野 芳史)

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