記事登録
2008年08月05日(火) 00時00分

(7)ファンクラブまだ現役読売新聞

完成したばかりの本「渥美清さん ありがとう」を手にする松井寿一さん。胸にはファンクラブのバッジが光る

 「男はつらいよ」の全48作中、寅さんが海外に行く作品が一つだけある。第41作「寅次郎心の旅路」。ロケはウィーンで行われた。この海外ロケに渥美清さんが出発する前日、寅さんファンクラブ会長の松井寿一さん(72)は約30年勤めた会社を辞めた。1989年5月。医薬品業界紙の役員を務め、定年までまだ7年あったが、少しも未練はなかった。

 「一緒にウィーンに行けると思うと万々歳だった。初の海外ロケを支えるのは、会長の僕しかいないという思いもあった」

 翌日、ファンクラブの仲間約30人とロケ応援ツアーに出発した。撮影の追っかけ旅行……のはずが、現地では急きょ映画にも出演した。

 「右手にあるのが有名なモーツァルトの記念像です」

 竹下景子さん演じる現地ガイドに案内されながら、寅さんの前を通り過ぎる観光客役。実際の映画で松井さんが映るのはわずか2秒ほど。しかし、リハーサルは50回以上繰り返された。思わず、「監督、気が長いでしょ?」と聞くと、山田洋次監督はマジメな顔で「僕は気が短いですよ」。真剣勝負で映画が作られていることを思い知らされた。

 「『あっ、弟が映画に出てる!』って笑っちゃった」

 これが最初の印象だった。72年夏、たまたま入った池袋の映画館で初めて「男はつらいよ」の3本立てを見た。べらんめえ口調で、ヤクザっぽくて、落ちこぼれた感じ。当時、ちょっとぐれていた弟が寅さんとダブって見えた。

 幼いころから、ラジオの寄席中継が大好きで、中学生の時には都々逸を覚えるなど、笑いの世界には通じているつもりだったが、「こんな面白い映画があるのか」と、引き込まれた。映画の舞台が、生まれ育った下町・元浅草と似ているのも魅力だった。

 以来、お盆と正月は家族で「男はつらいよ」を映画館で見て、食事をするのが恒例行事になった。

 ファンクラブができたのは82年秋。第30作「花も嵐も寅次郎」の撮影の追い込み時期だった。山田監督に、ずっと寅さん映画を撮り続けてもらおうと、松竹の肝いりで200を超す全国の映画館ごとに組織された。松井さんは「銀座松竹」の会長に選ばれ、その後、全国の会長会の会長に就いた。最盛期の会員は約7万人に上った。

 寅さんファンクラブの会長になって間もなく、あるパーティーで初めて渥美清さんに会った。渥美さんは、会場の隅っこに立っていた。

 「私が(会場の)真ん中にいると、周りに人だかりが出来て迷惑をかけます。私を見つけたい時は、部屋の四隅を探して下さい」。映画の寅さんと全く違う、渥美さんのつつましさにほれ直した。

 会長として、雑誌「花も嵐も」の誌上対談のホスト役も務めた。渥美さんとの対談で、「お互い下町育ちで、気が合うよな」と言われたのが、松井さんにとっては宝物のような言葉となった。時間切れで対談は途中で終わったが、渥美さんは「いつでも続きをやろう」と言ってくれた。松井さんは「あの世で、対談の続きをするのが楽しみ」と笑う。

 渥美さんが死去するまで、歴代のマドンナや出演者ら計65人と行った対談を今月、「渥美清さん ありがとう」という本にまとめ、自費出版した。

 ファンクラブは開店休業状態だが解散はしていない。「会長」の肩書も健在だ。毎日、スーツの襟にファンクラブのバッジをつけて出かける。

 医療ジャーナリストとして、病院関係者や患者らに「健康と笑い」をテーマに講演して回る。講演には、もちろん寅さんの話も登場する。

 「寅さんは、金持ちや、社会的地位の高い人にもこびないで、同じ目線で接する。地位、名誉、財産などで人と比較しない。だから、寅さんの心はいつも健康なのです」

 寅さんはまだ生きて旅を続けているというのが、寅さんファンクラブの“公式見解”。その理由を、松井さんは、こんなダジャレで解説した。

 「寅さんは死んでいないよ。寅は猫科だろ?」

 「……」

 「猫が好きなのは?」

 「またたび」

 「だから、寅さんは、また旅に出ているだけなんだよ」

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231217264378697_02/news/20080805-OYT8T00102.htm