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2008年08月03日(日) 00時00分

(6)レールなき道歩み 助監督読売新聞

 仕事はあったりなかったり。収入も同世代の半分以下だ。だけど自分は幸せだと、フリーの助監督、湯沢利明さん(48)(中野区)は思っている。あの映画のラストシーンで見た寅さんのように、道なきところに自分の道を作っているのだから。

1984年12月に結成された「東京六大学寅さんファンクラブ」の記念写真。渥美清さんの左後ろが湯沢さん(大船撮影所で)

 第34作「寅次郎真実一路」。思えば、この映画とは不思議な縁があった。出会いは映画館ではなく映画の撮影現場。1984年12月、明治大4年だった湯沢さんは、松竹が作った「東京六大学寅さんファンクラブ」の結成式に参加した。その目玉イベントが、撮影現場の見学会だった。

 故郷の新潟県加茂市の駅前に1館だけ映画館があった。子供のころから映画が好きで、その映画館にかかる映画を片っ端から見てきた。お盆と正月の定番は「男はつらいよ」。映画監督になるのを夢みるようになって、ハリウッド映画とはひと味違う、この映画の丁寧な作りに強く引かれるようになった。

 映画作りの本場・東京に出たいと、地元の短大を中退して明大に入り直し、知り合いのつてで、若手監督の撮影の手伝いをするようになった。卒業が近づいたころ、映画論の授業で寅さんファンクラブへの参加を呼びかけられ、一も二もなく参加した。

六大学寅さんファンクラブの会員証などを大切に保管している湯沢さん

 初めて訪れた松竹・大船撮影所。その時の撮影は、寅さんが「そうか……」と一言つぶやくだけのシーンだった。山田洋次監督は、カメラに映らない場所に博役の前田吟さんを座らせ、何度も直前のシーンのセリフを言わせていた。タイミングをつかんだり、目線を合わせたりしやすくするためで、通常はスタッフがやる仕事。役者が気持ちを作りやすいよう、手を抜かず心を込めて撮っているのだと衝撃を受けた。

 1か月後、試写会で完成作を見た。仕事に疲れ果てて失踪(しっそう)したサラリーマンの妻に、寅さんがほれる話だ。夫は結局、家族のもとに帰り、失恋した寅さんはまた旅に出かける。

 ラストシーンで、寅さんは相棒と古い駅舎で電車を待つが、いつまでたっても電車は来ない。相棒が言う。

 「だめだ寅。これいっくら待ったって汽車なんて来ねえよ」

 「そんなことねえじゃねえか。線路はずっとつながってんだろ」

 「それがねえんだよ」

 大笑いする二人。レールのない廃線の跡を、寅さんが相棒と軽やかな足取りで歩いていく姿で映画は幕を閉じる。

 大手映画会社は募集さえしておらず、就職のあてもない状況だったのに、このラストを見て、湯沢さんは晴れ晴れとした思いに包まれた。

 「道は自分で作っていくという後ろ姿。組織が幅をきかせる社会から逃げるのではなく、立ち向かうという希望を感じて励まされたんです」

 PR会社に就職したが、3か月で辞めて、フリーの助監督になった。最初はピンク映画や教育映画ばかりで生活も不安定だったが、あのラストシーンを見て以来、「自分の道を行く」という気持ちがぶれることはなかった。

 そのうち、劇場公開される映画の制作にも声がかかるようになった。三国連太郎主演の映画「ひかりごけ」では高齢の笠智衆さんの体を後ろから支えた。忘れられないのは、91年に「男はつらいよ」のスタッフが作ったテレビドラマ「上山温泉殺人行」の制作に参加したことだ。撮影は大船撮影所で行われた。

 あの日の見学から7年。自分を支えてきた映画のスタッフと一緒に、作る側にいられるのがうれしかった。スタッフたちは裏方に徹して緊張感のある撮影を続け、時折絶妙なタイミングで冗談を言っては場を和ませる。自分が目指してきたプロの仕事だった。

 最近は、映画撮影にフリーの助監督が起用されることが減り、仕事もテレビドラマが中心になった。それでも、いつか、自身が監督して家族をテーマにした映画を作りたいと思う。「真実一路」は、とらやの変わらない大家族の一方で、高度成長の陰で壊れつつある核家族を描いていた。家族は社会を映し出す鏡。寅さんはそれも教えてくれた。

 今は、秋から始まる子供ドラマの準備で忙しい。怪獣とヒーローが戦う戦隊もの。夢の映画を作るのはまだ先かもしれないが、夢に向かって歩いていくつもりだ。レールのない道を寅さんと一緒にちょこまか歩いている自分を、いつも心に描きながら。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231217264378697_02/news/20080803-OYT8T00105.htm