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2008年08月01日(金) 00時00分

(4)等身大の地蔵彫り恩返し読売新聞

「僕が一番、寅さん地蔵の御利益にあずかっている」と話す川島さん

 「安芸には三つのトラがある。一つ目は、安芸の城主、安芸国虎公のトラなる。二つ目は、寅さん地蔵のトラ。三つ目は、(春季キャンプに来る)阪神タイガースのトラなるぞ。トラの町だよ安芸の町♪」

 安芸ちんどん倶楽部座長の川島憲彦さん(60)(高知県安芸市)の口上は、寅さんの啖呵売(たんかばい)の口調に似る。そこらの寅さんファンとは年季が違う。何しろ、素人なのに等身大の寅さん地蔵まで彫ってしまったお方なのだから。

 「男はつらいよ」を初めて見たのは22歳の時だった。

 体育の教師になりたくて愛知県内の大学に進んだが、肩をケガして大学を中退。地元で父のガソリンスタンドを手伝い始めたが、その2年後、父は急逝した。代わって経営者になったものの、手形が落とせずに金策に走り回るなど苦労の連続。そのころ、たまたま入った映画館で、第1作が上映されていた。

 寅さんのちょっかいで、さくらに振られたと勘違いした博が、タコ社長の印刷工場を辞めると言い出す。血相を変えてとらやに入ってきたタコ社長が寅さんと口論する。

 「てめぇなんかに中小企業の経営者の苦労が分かってたまるかってんだよ!」

 これって、まるでオレじゃない? 腹をかかえて笑い、しんみり泣いた。以来、映画が公開されるたびに、仕事を放り出して映画館に駆けつけるようになった。

 庶民の暮らしと人情、家族の心のつながり……。自分の身の回りの生活と同じ目線で描かれる「男はつらいよ」の世界に魅了された。とりわけ、自分のことは何一つ解決できないのに、とことん他人の面倒を見る寅さんにほれた。

 1995年、「寅さん一座」を旗揚げした。

 シリーズ全48作中、ロケ地になっていないのは高知と富山の2県だけ。寅さんを高知に呼ぶ誘致運動を盛り上げるためだった。ヒントは、映画の中で寅さんが出会う旅回りの一座。自分が座長になり、漫才師や落語家、手品師にチンドン屋などを集め、総勢約15人で県内を巡業した。

 座員が次々と芸を披露した後は、寅さんがとらやの面々と丁々発止とやり合うシーンを再現。最後は座長自らがあいさつに立ち、「ロケ誘致にご協力を」と呼びかけた。

 「絶対、寅さん呼べよ!」。声援とともに、おひねりが飛び交う公演が評判となり、最初は重い腰を上げようとしなかった県観光部の職員も公演を見に来た。「この熱気に驚いた。上に報告します」と、誘致に乗り気になった。

 地道な活動は松竹も動かし、富山など20か所以上が誘致に動く中、高知が見事、49作目のロケ地に内定した。

 しかし、スタッフが県内でロケの下見をした約1週間後の96年8月7日、渥美清さんの訃報(ふほう)が飛び込んできた。考えもしない幕切れだった。

 つらい時や落ち込んだ時に、笑いと勇気をくれた寅さんに自分なりの恩返しをしたい。川島さんは考えた末、寅さんの地蔵を作ろうと決めた。

 第22作「噂の寅次郎」の冒頭、寅さんの夢に登場する「寅地蔵」が、「どうか柴又村の人が幸せになりますように」と祈るさくらの願いをかなえてやるシーンがある。多くの人々を幸せにしてきた寅さんに、ぴったりだと思った。

 石を彫るのはもちろん初めて。渥美清さんの一周忌までの5か月、毎日、夕食の後に石に向かい、使い慣れないのみを握って彫り続けた。約1・3メートルの大作は、トレードマークの帽子と背広を着た寅さんが、目を閉じてハスの葉の上であぐらを組む姿。自宅の前に置いて、脇には「さくら」の木も植えた。一周忌前日の除幕式には、山田洋次監督から「とてもいいお顔」というメッセージも届いた。

 地蔵の台座には「旅の安全 縁結び」。今ではお遍路さんや旅行客が立ち寄る観光名所の一つになった。川島さんは「誘致活動や地蔵作りを通して、数多くの人と出会えた。僕が一番、地蔵の御利益にあずかっている」と話す。

 一座は解散したが、そこで覚えたチンドン屋の活動を続け、老人ホームなどを回っている。「自分も寅さんのような天真爛漫(らんまん)な生き方が出来たらいいと思う。現実はタコ社長なんだけど」

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231217264378697_02/news/20080801-OYT8T00108.htm