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2008年08月01日(金) 12時37分

モエンジョダロ〜砂漠の世界から緑の大地へオーマイニュース

<前回までのあらすじ>
 地球一周40000キロを自転車で走る。壮大な夢を抱いて僕は世界へ飛び出した。パキスタン西部のバロチスタン砂漠、卵ゲップの洗礼を受け、細菌性の水下痢に悩まされる。

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 変化は劇的に訪れた。デラ・ムラッド・ジャマリという町に泊まり、その翌日、町の中心部を抜けて次に現れた風景に、思わず目を瞠(みは)った。水路が縦横に走り、田んぼが広がり、子供たちと黒い水牛が一緒になって泳いでいた。つい昨日までの砂嵐がうそのような、緑の田園風景だった。

 (これがインダスの恵みというやつか)

 僕は深呼吸をした。水気を含んだ空気が肺にしみた。大河の畔サッカルの町まではまだ120km以上の距離がある。しかし、イランから、いや、トルコ東部から続いた赤く渇いた大地はついに終わったのだ。

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 サッカルに僕は3泊した。高地乾燥地帯のクエッタとはまったく趣の異なる、混沌(こんとん)と雑然さに包まれた湿気の多い町だった。サッカルには川をせき止める巨大な水門があった。インダスの水流はここで調節され、無数に引かれた運河や用水路に分配され、穀草地帯を支えている。

 高台の塔に登ると対岸の緑や町並みが見えた。地平の彼方(かなた)まで鬱蒼(うっそう)と緑が続いていた。しかし実際に川べりを散歩すれば、リキシャや馬車の喧噪(けんそう)と、動物の糞尿(ふんにょう)と、ゴミの異臭で汚されていた。シャルワールカミース姿の男たちが、子供たちが、せわしなく行き交っていた。

 やはり女の姿は少なかった。時折全身すっぽり頭まで覆ったブルカと呼ばれる衣装姿の女性を見かけたが、まるで虚無僧のように顔の部分も格子状の布で隠され、ぱっと見には年齢も分からなかった。隣国イランに比べると、女性はより奥まったところにいる印象があった。

 市内の主たる交通手段はリキシャだ。バイクを改造し、後ろに幌(ほろ)付きの台車を取り付け、客を乗せて運ぶ。リキシャの語源は日本語の人力車だったが、スズキのバイクを改造したものが多いことからスズキとも呼ばれていた。狭く複雑なサッカルの道を、やかましい音楽を鳴らしながら朝から晩まで多くのスズキが走り回っていた。

 むしろサッカルの方がいわゆるパキスタンらしい町なのだろう。1億3000万の人口を誇るこの国の、民衆の生活が渦巻いていた。

 サッカルを拠点にして僕はモエンジョダロを訪れた。サッカルの宿から郊外のバスターミナルまでスズキ、約100km離れたラルカナまでバス、ラルカナ市内の別のバス乗り場まで小型のオートリキシャ、そこからさらに2台のバスを乗り継ぐという、非常に面倒臭い道のりだった。

 ラルカナの乗り換えでは流暢(りゅうちょう)な英語を話すインテリ風の男が案内してくれた。親切にモエンジョダロへの行き方を教えてくれた一方で、「コーヒーを飲もう」「冷たいジュースをおごってやる」と、盛んに飲み物を勧めてくるのが怪しげだった。

 僕が再三断ると、途中でリキシャを降りていなくなってしまった。旅人の直感に過ぎないが、睡眠薬強盗だったのかもしれなかった。トルコやアラブ地域を中心に、飲み物やお菓子に睡眠薬を混ぜて、眠らせたすきに金品を強奪するという犯罪は有名だった。

 ともあれ無事にモエンジョダロ到着。数千年の歴史を刻むインダス文明の大遺跡だ。それだけの歳月を経たとは到底思えぬほど、レンガ組みの建築はしっかりと残っていた。上下水道の水路も、とうに涸(か)れてはいたが、往時の技術の高さをしのばせることができた。

 一方で9月下旬とは思えぬ酷暑だった。陽炎(かげろう)が揺らめき、レンガ造りの井戸が、街路が、何もかもがぼやけて見えた。死にそうな暑さのせいか、交通不便な立地のせいか、はたまた度々強盗事件が起きているという地域的な治安の悪さのためか、知名度抜群の名所にもかかわらず訪れる者は少ない。パキスタン人観光客が数人いたのみであった。

 年配のおじさんが隣にいた。強盗の多発地帯にあって、おじさんは「セキュリティー」の胸札を付けた護衛だったが、どう見ても丸腰の上に僕よりも先に暑さにばてており、じっくり堪能したい僕をせっつき、早く帰りたがっていた。

 灼熱(しゃくねつ)の居住区をぐるりと一巡りし、僕は再び城砦(じょうさい)地区に戻った。おじさんはもうげんなりした顔で、レンガ壁の日陰で汗をぬぐっていた。

 「死者の丘」を意味するモエンジョダロ。遺跡中央の丘に、まるで見張り台のような塔が建てられていた。円形のその塔はインダス文明の遺産ではない。時代がぐんと下がったクシャナ朝期の仏塔だ。僕にとってはこの旅を通じて初めて出会う仏教関連の史跡であった。

 砂漠の世界から緑の大地へ。一神教の大地から多神教の世界へ。僕は自分の旅がまた新たな段階に入ったことを感じ、そっと手を合わせた。今後の旅の無事を祈った。

【2002年9月29日
 出発から24099キロ(40000キロまで、あと15901キロ)】

(記者:木舟 周作)

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