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2008年04月28日(月) 18時32分

「自殺」について考えてみる。ツカサネット新聞

このところ硫化水素を使っての「自殺」が相次いでいる。硫化水素自殺は、自殺を図った本人だけでなく、周りの人にも危険を及ぼすというもので是非やめていただきたい。

そこで「自殺」というと、どうしても精神世界と切り離せて考えることは出来ないが、キリスト教とチベット仏教を例にとってこれらの宗教では「自殺」はどう考えられているか調べてみた。

『自殺はキリストが述べられた次の原則にも反します。「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」最も近い「隣人」とは家族です』− キリスト教 聖書 マルコ12:31より

『死や一生のはかなさについて深く考えると、私たちの心は自然と精神的成就に興味を抱き始めるようになりますが、ちょうどこれは、ごく普通の人が友の亡骸を目の当たりにしたとたん、何かに気付き始めるのと似ています。無常と死について瞑想することは、大変有益なことです。なぜなら瞑想することによって、はかなく無意味な行いに心が奪われてしまうことがなくなるからです。』− チベット仏教 最高指導者 ダライ・ラマ14世 日本事務所 トップページ 日替わり説法より

もちろんどちらの宗教も「自殺」には否定的である。

「死にたい」と思う人に何を言っても聞く耳を持たないというのを聞いたことがある。月並みな言い方になるが、自分が死ぬのは勝手だが、残された人のことを考えたことがあるのだろうか?

死んでしまったら自分はそれで終了するが、家族はその先何年も、「なんで死んでしまったのだ」という疑問とやり切れない悲しみをかかえて生きて行かなくてはならない。もうすこし時が経てば勝手に死んだ家族に対して「無責任だ」と怒りさえ覚えるだろう。

世の中には毎日死にたい気分で暮らしている人のほうがハッピーな人よりも多いと思う。こんなに世相が荒れていてはなおさらだ。自殺願望者に対して、他人が思いとどまるよう説得して成功する確率はきわめて低い。それが家族や愛する人であってもだ。

極端な話で申し訳ないが「自殺志願者」は死ぬ前にインドに行ってみると良い。

ヒンズー教のメッカであるベナレスで死を迎えるのはこの上なく幸せだという。「死を迎える館」は有名だそうだ。

ベナレスは死の町。また天国への旅立ちへの出発点」とも言われている。家族で、死期の近づいた病人を連れてインド中(一部)の人がベナレスに入り、死期を自然に迎え、死後はガンジスのほとりで遺体を焼き、遺灰は聖なる川、ガンジスに流す…。また、焼かないままの遺体、家畜等もガンジスに流すそうだ。

これほど「死」が自然と対座した教えは現代の日本人にとって経験するなんてことは皆無状態だろう。(現実として日本には水葬そのものがない)こういった宗教心、信仰心、異国的(異宗教)風習、全てをガンジスがのみこむ風景などを目の当たりにすることにより、逆に「生への執着」を得るのではないだろうかということだ。

前述のダライ・ラマの言葉を借りれば、あまりにも死を目の当たりにすることは無常と死について瞑想することになり、無意味な行い(すなわち自殺)に心を奪われることがなくなるという。

硫化水素によるものだけでなく、自殺が世の中から消え去ることを切に望む。

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(記者:zuenmei)

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