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2008年04月18日(金) 17時06分

戦争に翻弄された家族 第11回オーマイニュース

 前回までの話「アメリカの親せきから送られてきた1枚の写真から、太平洋をはさんで、原爆、収容所、刑務所、満州など、家族が戦争に翻弄(ほんろう)されてきた歴史を知る。アメリカに渡った重雄と清子はそれぞれ刑務所、収容所に入れられ、日本に残った勲は軍人として満州に渡った。満州では比較的のんびりとした生活を送っていたようだ」

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 広島に残った幸一は、日本の植民地となった朝鮮半島との薬やニンニクの貿易、特許を取っていたガス部品の販売などの商売を続けていた。また工場を監督していたカズノの親せきの1人が徴兵され、その工場の管理も任されるようになっており、ますます多忙を極めていたようだ。そのころの広島は軍都として活況を呈していた。

 1894年、日清戦争が勃発(ぼっぱつ)すると、広島は大陸への兵員・物資の輸送基地として、全国から兵隊や軍事物資が集まってくるようになっていた。広島城には臨時の大本営が設置され、有事の際には臨時の首都となるように決められた。そして第五師団が置かれた。

 日露戦争、満州事変と戦争を重ねるにつれて、軍都としての地位は不動のものとなった。軍事施設、軍事物資の製造工場などが次々と建設され、太平洋戦争時には広島市の全面積の10分の1が軍用地であったとされている。

 ところが東京・大阪などの主要都市が次々に空襲にあい、町中が焼け野原になったにもかかわらず、軍事都市である広島は攻撃されることはなかった。それはアメリカで5月28日に、すでに原爆の使用を前提として攻撃目標都市を定め、空襲による攻撃を禁止する決定をしていたためであった。

 そんなことも知らず、人々は次は広島の番ではないのかと心配し、日々の警戒警報、空襲警報、そして解除に翻弄されていた。軍が守ってくれているから、広島には近づけないのだろうなどと楽観していたよなどという話も聞いたことがある。

 1945 年8月6日、テニアン島を出発した、エノラゲイをはじめとする3機のB-29は、対空砲火を受けることなく広島に近づきつつあった。広島ではその深夜に空襲警報が発令され、午前2時には解除になった。そして朝7時ごろ再び警戒警報が発令され、7時半ごろには解除された。

 その夜人々は十分な睡眠をとってなかった。防空壕(ごう)に入っていた人々は、一斉に家に戻り、急いで朝食をとり、それぞれの職場、学校、動員先へと向かっていた。アメリカ軍が投下に選んだ時間は、人々が一斉に外に出るであろう時間だった。大人は職場に、子供たちは学校に向かう、その時刻を選んだのだった。

 8時15分。銀色に光る飛行機に気づき、多くの人々が空を見上げた。ある者は敵機とすぐ分かったというが、たった3機だったため、偵察と思ったと証言している。また日本軍のものかと思ったという人もいた。

 そしてその1機エノラゲイから世界で初めての原子爆弾が投下された。ピカッと青いような黄色いような、被爆者の方はよく「マグネシウムを何千個も何万個も同時にたいたようだった」と証言されている閃光(せんこう)が放たれた。その後「ドーン」という耳をつんざくような音が続いた。しばらくすると巨大で真ん丸い火の球が広島の上に現れ、そして消えていった。この閃光と轟音(ごうおん)のために、広島では今でも原爆のことを「ピカドン」と呼んでいる。地上では 3000度から4000度にもなったという。それに続いてむくむくときのこ雲が立ち上っていったのである。

 当時広島には35万人くらいの市民と4万人くらいの軍関係者、動員などで市内に入ってきていた人などを合わせて40万人くらいの人々がいたようだ。そのうち投下後3日以内に亡くなったのは約7万人、その後次々に現れた急性原爆症で亡くなった人は、その年の暮れまでに7万人いる。

 幸一は8時過ぎに監督を任されていた工場に向かうため、爆心地から約1キロの自宅を自転車で出た。工場は爆心地を中心に弧を描くようにして自転車で約5分くらい西に向かったところにあった。

 カズノはひとり家に残っていた。そして原爆投下。家は激しく揺れ、窓という窓、建具はすべて吹き飛ばされた。周辺の家々がすべて倒壊した中、柱や梁(はり)などは倒れなかったために、瓦礫(がれき)に埋もれることはなかったらしい。

 何があったのか分からないまま、ぼうぜんとしていたであろうカズノのところに、親せきのひとりが、

 「めがね橋の上で幸一さんが倒れていなさるよ」

 と知らせに来た。

 カズノとその親せきは大急ぎで戸板を持って、その橋に向かった。その橋がどこだったのかは「めがね橋」という地名がもう残っていないために分からない。広島は大田川の支流に広がるデルタの町で、川が7本流れており、橋も多数かかっていたため、おそらくここらあたりだろうと推測される橋が数本ある。どの橋も爆心地から700〜800メートルのところにある。

 カズノが見た幸一は全身ガラスの破片が突き刺さり、真っ黒に焼けただれ何も話すこともできなかったと聞く。家々からは次々と火が出て、町は倒れた建物、電柱、死体であふれていた。その中、戸板に幸一を寝かせ、その親せきの者と広島市の西にあるカズノの姉の家に運んだ。

 爆心地から1キロ以内の屋外で被爆した人の、80〜90%は当日亡くなったというから、幸一が2日間生きていたのは奇跡だったかもしれないし、それだけ苦しみが長引いたともいえるかもしれない。ただ家族に見守られて亡くなったのは、何万という被爆で死亡した人の中でラッキーなケースだっただろう。

(記者:浜井 道子)

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