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2007年11月15日(木) 09時59分

つれづれ、そぞろに鎌倉・ここが鎌倉の中心だツカサネット新聞

鎌倉といえば、大仏か鶴岡八幡宮がその象徴というのが一般的ではある。
しかし、真の鎌倉の中心すなわち幕府は、鶴岡八幡宮よりも西、清泉小学校脇にあった。
鎌倉幕府といえば、征夷大将軍となった源頼朝とその一族、執権を世襲した北条氏と他の豪族たちがからんだ数々の政争や戦乱が思い出される。
しかし、歴史上の事件と伝わっているものはむしろ非常時のことで、当時の人々には、主に所領を巡る紛争を解決する所という印象があったことであろう。
当時の武士たちは、農場経営が本業のようなもので、自分たちが所有する土地を守るために武装していたが、土地の領有権は死活問題であった。
一生懸命という言葉は、「一所懸命」すなわち土地に命をかけることを語源としているというが、戦時に幕府のために奉公するのも、恩賞としての土地を得るためであった。
それだけに、土地の所有権を巡る紛争も少なくなかった。
頼朝は、元暦4年(1184)、平家を完全に討伐することに先んじて、裁判などをつかさどる問注所を設置したが、武士たちにとって、土地を巡っての紛争がいかに切実な問題であったかを物語っているといえよう。

大正6年に鎌倉町青年会によって建てられた石碑のみが立っているのは、少し寂しい感じがしなくもない。
他の観光地に人々の関心が集まりがちであるが、この鎌倉の地が世間に知られるようになったのは、幕府 がここにあったがゆえであるということは忘れられるべきではないであろう。



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(記者:菊池 道人)

■写真
写真撮影:菊池 道人記者

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