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2007年11月14日(水) 09時48分

大切な人を包み込む心ツカサネット新聞

「痛みを知らない奴だけが、他人の傷を見て笑うのだ」。そんな台詞がシェイクスピアの本にある。痛み。肉体的な痛みは時が解決してくれよう。ここで問題としているのは、心の痛みである。

人は誰しも少なからず悩みを抱えて過ごしている。たとえそれが他人にとっては些細な事であっても、当人にしてみれば、とてつもなく大変であったり、哀しく苦しい問題であったりするものだ。その原因が何であれ、こちらとしては当人が打ち明けてくれるのを待つしかないのである。いや、中には手を差し伸べて欲しい、どうしたのかと聞いて欲しいと思っている人もいるかも知れない。

だが、それをどのようにして見分けるのだろうか。一歩間違えれば、相手に対して痛みを与えかねない。頭をフル回転させる。相手の立場になって想像してみたりする。しかし、答えは見つからない。そう、いくら考えてもうまい方法が見つからないのは、自分と他人は違うからだ。

では、どうするべきか。人との接し方は個々それぞれであるが、私はストレートに聞いてみるのである。「最近元気がないように見えるけれど、何かあったのか?」という風に。こうもストレートに聞けるのも、私が「物事をハッキリ言うことは、悪いことではない」と思っているからだろうか。だが、言葉というものは、時に諸刃の剣となることがあるのだ。もちろん、私はそれを承知の上で相手に訊ねるのである。傷を与えても構わないなんて思っているわけではなく、真剣に相手を想うからこそ訊ねることが出来るのだ。

「心」というものはとても繊細で、尚且つ、理解し難い。だからこそ、心の病を抱えている人には、中途半端に向き合ってはならないと思う。かと言って、全身全霊で相手に向き合えるのか? もし、向き合えたとして、その心の病を自分が治せる確率など何%あるだろうか。

自分に出来ることは、ただひとつ。「私はあなたをちゃんと見ているし、離れていてもあなたのことを考えています」。たとえ傍に居なくとも、相手を重んじ、相手を気遣う姿勢を常に持ち続けていること。それが大切ではないかと思う。孤独を感じ、虚しさや哀しさで涙が溢れても、たった1人でも、そういう人がいる。その事実だけで、闇を通り抜け、明日を迎えられるはずだ。

大切な家族、友人、恋人…。私は大切な人達を包み込めるような心を持ちたいし、そういう姿勢で在り続けたい。


(記者:しょう)

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