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2007年11月13日(火) 12時08分

イタリアサッカーを蝕む暴力の正体ツカサネット新聞

またしても悲しい事件がイタリアサッカー界で起こってしまった。メディアによって多少内容が異なっているので、まだ詳細などについては断言することは出来ない。だが個人的な感想を言えば、起こるべくして起こった事件であるように思う。

今年の2月にもイタリアでは死亡事件が起こっている。だが、その時の犠牲者は警官だった。ダービーという通常とは異なる雰囲気によって高揚したファンが暴徒化した結果、抑止を試みた警官が命を落とす羽目になってしまった。イタリアでは以前から発炎筒の持ち込みは当たり前、クラブと過激サポーターの癒着も問題視されており、スタジアムの警備において他国リーグと比較して甘いといわざるを得ない状況だった。

だが、事件を契機に再発防止を目指して、国主導による法整備などが進められた。スタジアム施設の改善はもちろん、ファンによる危険物持込の徹底廃止、より厳重なファン管理のチェックなど、多くのファンに安心してスタジアム観戦を行ってもらうための法整備を実施した結果、先月25日付ロイターの記事によると、スタジアムでの負傷事件が昨シーズンに比べ80%も減少したらしい。データだけを見れば、新法は成功しているように思えるのだが、今回の事件で新法のメッキははがれてしまったといえる。

イタリアという国は歴史的に見ても、そもそも建国からして地方共同体の集合で形成されており、地元への愛着は非常に強いものがある。2月のダービーでもその地元意識が強すぎたことが原因の1つでもあるのだが、こればかりはイタリア人という、そして生まれながらの気質なのだから今更なおるはずもない。

今回のニュースを伝える記事を見ていて思うのは、死亡事件が起こったことと3試合が中止、または延期になったことが直接結ばれているような表現になっていることなのだが、実はそうではない。3試合のうち延期になったインテル対ラツィオ戦とローマ対カリアリ戦の2試合については、死亡したのがラツィオファンということで直接関係はあるのだが(ローマはラツィオ州に位置しており、ホームスタジアムも共有している)、アタランタ対ミラン戦には直接的関係はなかったのである。現に延期になった2試合を除いた他試合同様に、キックオフの笛は吹かれていた。

この試合が中止になった原因を調べてみると、死亡事件に怒ったアタランタファンがピッチに侵入しようとしたり、物を投げ入れたりと選手に危害を与える恐れがあったからだった。ではなぜ、直接的関係のないアタランタファンは暴れだしたのだろうか。

1つにはやはり、たとえ威嚇であれ警官の撃った弾でファンが殺された事実だろう。威嚇なのだから上空に撃つはずの弾がなぜ命中するのかという疑問も残るが、警官が一般人を殺した事実に変わりはない。そして反抗されたことによる正当防衛ならまだしも、小競り合いを起こしたファンは、近づいた警官に気付き慌てて逃げ出したらしいのだ。そこには殺人の正当性の欠片は微塵もない。

しかし今回の事件だけがアタランタファンを突き動かしたとは思えない。やはり今までの鬱憤が今回の事件で爆発したのではないだろうかと思うのである。そして今までの鬱憤を考えると、それは2月の新法に行き着くのではないだろうかと思うのである。

「カルチョの国」と言われるほど、イタリア人のサッカーに対する思い入れは強いものがある。仮にサッカーが、自分の応援するクラブが、自分を認識する一番大きな手段であったとしたらどうだろう。それだけが自分を主張できる、自分を支えている唯一の存在であったとしてもおかしくはない。そしてその存在を法によって縛られたら、自由をなくしたらどういう結果になるだろうか。

データを見る限り、新法は短期的には成功したと言えるかもしれない。だが今回の事件によって新法も、そしてデータも有形無実のものであったと証明されてしまった。これを機に、イタリアではサッカーに対する様々な議論が展開されることだろう。そして再び国が動き、より厳しい規律が生まれるかもしれない。だが単純な「臭いものには蓋をしろ」的な規律であれば、今回のような暴動は再び起こるであろう。かといってそのまま、あるいは緩くすると、自由を取り戻したファンは2月のような暴動を再び起こすだろう。

イタリア人とはそのような気質を、ことサッカーに関しては持っているのだ。


(記者:adios7210)

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