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2007年11月12日(月) 11時48分

幻の恋は、好きになる能力?ツカサネット新聞

3年の歳月をかけ、やっと念願叶ったゆうちゃんとのデートは最初で最後となった。そのとき見た映画は、確か「トラック野郎」のシリーズのどれかだったと思う。ゆうちゃんは、その映画に出演している俳優さんのあれこれとか、人生における諸問題のあれこれとか熱っぽく語ってくれた。大きな音量の映画を見ながら、声をひそめて語られるせいで、よく聞き取れず、おまけに世俗の諸事情に疎いわたしには、内容もよく理解できない。そんなこんなで、せっかくのデートなのに気持ちが今一つワクワクしきれていなかった。3年間あたため続けてきた恋の現実への一歩なのに、なんとなく違う。どこか違う。なにかが違う。

高校2年のとき、同じクラスのひとりの男の子に恋をした。澄んだ瞳に純真無垢な心を見出し、こだわりのない立ち居振る舞いに無欲で凛とした人柄を確信した。整った字を書き、スポーツも万能、迷わず心ときめく存在だった。

よくある「好きです、付き合ってもらえませんか」なる告白はしないものの、彼の周囲の友人たちに「ゆうちゃんのこと大好きだから」と平然と吹聴し、行事の際の写真も「好きだよ」のアピールの一環として集めた。みんなから苗字で呼ばれていた彼を「ゆうちゃん」と呼んだ。「『ちゃん』はやめてよ…」と、はにかむ彼の様子に気を引いた成果を感じて有頂天になったりしていた。文芸部に所属していたわたしは、部活動の恒例の文集には「ゆうちゃん」なる純真な子供を主人公にした童話を投稿した。

そして一年が過ぎてクラスが変わると、廊下を通るゆうちゃんを目で追った。下校時などは、彼が通りそうな時間にわざと昇降口でうろついていたりしたものだ。そんなわたしにゆうちゃんは気づかないわけもなく、クールな彼は、会えば「ヨッ」と軽く手を上げて挨拶してくれた。けれども、まともに向き合って何かを語り合うことはないまま、やがて卒業。

ゆうちゃんは県内の大学へ進み、わたしは県外の学校へ進学。家を出て下宿生活となった。はじめての一人暮らしの心細さもあったと思う、わたしはたびたび近況を綴った手紙を出した。彼は当たり障り無くけれども律儀にきっちりとお返事をくれた。

大学2年生の夏休み。郷里に帰る日に、会ってもらえないかとお願いして、初めて憧れの彼と現実に面と向かって会話を交わすことになった。何度も夢にまで見たゆうちゃんとのデートだった。それなのに、何かが違う。なんとなく物足りない。

本物の生身の彼は、わたしの思い描いていたゆうちゃんなる人物ではなかった。なんということだろう。何を見て、3年もの間あこがれ続けていたのか。あれだけ大胆に大騒ぎして「好き」を吹聴しておきながら目の前の現実の彼にときめくことができない。自分の脳裏に住んでいる居もしない人を、現実のこの人に重ね合わせて語りかけ続けていたのだ。わたしは、長い間勝手な想像でイメージを膨らませすぎてしまっていたのだ。

現実の彼は、決してつまんない人なんかではない。むしろ多才で、山登りやら自転車やら広くいろんなことを楽しんでいて、野球もマージャンも好きで、話題も豊富、社交性もある素敵な人。けれども、彼が普通に素敵であればあるほど、根暗で社交性も無く卑屈なわたしはかえって心を開くことができない。わたしの青春の日の恋は、こうして一瞬のうちに幻と化して消えていった。「あんたなんか嫌いだ」とか言われるわけでもなく、綺麗な人にとられてしまって悲しい失恋をするでもなく、あっさり消えてしまった。ひきずるような想いすらなにもなかった。

最初で最後となったデートの後、ゆうちゃんは、「自分を出して語りすぎたかも」というような内容のこと伝えてくれたと思う。わたしは、「長い間勝手なイメージを押し付けてうるさく付きまとって、随分失礼なことをしてしまった気がする」というようなことを伝えたと思う。その後は自然に交流も途絶えた。

振り返れば、わたしはいつも誰か彼か好きな人がいる人生だ。「好きな人」といっても、尊敬する人とか、理想の人とかいうクールでドライな気持ちではない。恋焦がれる恋愛感情を抱いて、人を好きになるのだ。幼い頃から毎年クラスに意中の子を見出し、日々その子に熱い視線を注ぎつつ、その子とのささやかな関わりを楽しみに過ごしたものだ。

そしてこれらの恋は、念願かなって、憧れの彼とデートをすることがあれば消滅してしまうのだ。喧嘩をしたり、捨てられたり、捨てたりして終わることは決してない。現実の等身大のその人と向き合った瞬間に、消えてしまうものだ。

この焦がれるような気持ちに自分では、かなりの劣等感を持っていた。醜いわたしが、キラリと輝くカッコイイ人にあこがれる。浅ましいわたしが、純真で謙虚な心の美しい人に惹かれる。ダサくて垢抜けないわたしが、クールでスマートな人に夢中になる。いつも下の方から見上げ、すがりつくような「好き」という気持ちがわたしの中にはあった。自分に無いものを他の人に見出しては、その素晴らしいものを持ち合わせた人に愛されたいと欲するその下心の浅ましさ。人を好きになるわたしは醜いのだと。

ところが、あるときドロシー・テノフという人が、恋に落ちる心理状態を概念化し、「limerence」という言葉で表現しているという文に出くわした。「相手のことばかりが日夜、心を占める。苦悩と不安、期待と喜びに打ち震える。ほかのことに関心や興味が薄れる。自分の感情を制御できない強迫観念が生まれる」などの症状のことだそうだ。そしてlimerenceの状態を経験する人と、しない人がいるのだそうだ。

「相手を唯一の存在として『好きだ』と感覚するには、自分が何を欲するのか、鋭く対象を切り分けられる感受性と資質が必要になる。『好き』を感じられる人と感じられない人の個人差が大きいという。人を好きになるときは、相手の魅力に心を奪われているはずだ。『好きになる能力』の個人差とは相手の魅力を見つけやすい、見つけにくいの差なのか」と書かれていた。

わたしの場合、勝手に自分の想像した人間像を誰かの中に押し付けて好きになってしまうので、相手の魅力なのかどうかは微妙なところなのだが、「自分が何を欲するのか、鋭く対象を切り分けられる」と言う点ではまさにそうだと思った。「浅ましい下心」ではなく「対象を切り分けられる感受性と資質」なのだ。「好きになる能力」なのだ。

わたしの恋は、いつも失恋する機会さえ与えられずに消え失せてしまうけれども、これは「好きになる能力」ゆえなのか、とちょっと嬉しい気持ちになった。


(記者:もちすん)

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