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2007年11月05日(月) 10時31分

「である」ことと「する」ことツカサネット新聞

中学生の頃、英語の勉強で面倒だと思っていたのが、Be動詞と一般動詞の区別である。
I am a student. (私は学生である)
I study English.(私は英語を勉強する)

これが例えば、否定文 にしようとすると、その面倒 くささが現れてくる。

私は英語を勉強しないは、I do not study English.
であって、I am not study English.ではない。

以前に個別指導塾の講師をしていた時も、この違いを生徒たちに教えるのに苦労した。何とか理解してもらおうと、例えば、「Be動詞は数学の=のようなものだ。He is a teacher.ならば、彼=先生ということだろ」とか。上手な教え方がどうかはわからないが、ある時、「Be動詞は〜である、一般動詞は〜する」というようなことも話したことがある。

そして、「である」と「する」の違いは、塾講師を辞めて10年以上も経った今、何か重みのあることに思えてきた。

例えば、芥川賞とまではいかずとも、ある文芸コンクールで入選するような小説が書けたとしても、プロ小説家として、さらに優れた作品を書き続けることが出来るとは限らない。小説を書くという行為と、小説家として存在するということは別のものである。

そして、そうした存在であり続けるということは、ある行為を成すよりも難しいことであろう。社会をよくしたいという動機があって政治家になり、その動機を抱いた当初は権力欲や金銭欲は二の次ではあっても、長く政治家の座にいようとすると、すなわち政治家「である」 という存在を続けようとすると、どうしても選挙に勝たねばならなくなり、莫大な資金が必要となる。それがために、不正な方法で資金集めをするようになる。極端な例ではあるが、「である」を続けるために、自らを汚してしまうようなこともあり得るのである。

しかしながら、ほとんどの人は「である」ということに必死にしがみついて生きていかざるを得ない。だが、いつかは「する」という原点に立ち返って考え直してみたいとも思う。そして、将来の進路を決めかねている若い人たちには、「〜になる」よりも、漠然としたものであっても「〜する」ということから考え始めてみたら、と言ってみたい気もするが。


(記者:菊池 道人)

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