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2007年11月02日(金) 15時45分

道行くひとは「人間」か?ツカサネット新聞

私は早朝のウォーキングを日課にしている。太陽の昇る6時頃に起きて珈琲を飲み、外に出てストレッチをしていつもの川沿いコースへ向かう。目的はダイエットだが、朝の清しい空気と鳥の姿に心を癒すのも理由のひとつだ。

ある日のこと。川を眺めながらウォーキングを楽しんでいたところ、すぐ耳元で「ああ、いつものこの人だ。いつもと同じ時間だ」という声がして驚いた。見ると年配のご夫婦らしき2人連れで、男性の方が私を指差していた。そして私に気を留めるでもなく、そのまま話しながら通り過ぎて行った。私もビックリして立ち止まったものの、気を取り直してウォーキングに戻った。

このとき挨拶をしなかった私はもちろん悪い。でもすぐ傍で大きな声で、人を指差して話題にするのは失礼ではないかと少し腹が立った。相手のことを血の通った「人間」だと認識していたら、指を指して話題にしつつも当人を無視という態度はしなかったと思う。このご夫婦にとって私は、水に降りる鳥や野良猫たち、河原の鉄柵に貼られたポスターと相違なかったのだ。

都会に住んでいるとよく思うことがある。通り過がりの人々や電車で乗り合わせる人々を血の通った「人間」として見ることが出来ているだろうか。周りの人全てを「人間」とみなしていたら、車中で堂々と化粧直しをすることはないだろう。困った人を見かければ手を差し伸べるだろう。ぶつかったり足を踏んでしまったら即座に謝るだろう。でもそれが出来ていない人もいる。初対面もしくは時折見かけるくらいの、自分の人生に何ら影響を及ぼしそうにもない人は、泣き笑い、時に傷つく「人間」とみなされないのだ。傷つけることも迷惑をかけることも何とも思わない。それに気付く時、心が冷える思いがする。

冒頭のご夫婦に話は戻る。服装から考えると、多分このお2人は近くの畑で(この川沿いの道は田畑に囲まれている)朝から作業をしておられたのだと思う。きっと時計を持たないまま、いつもより長く仕事をしていて時間が気になったのだ。その時にいつも同じくらいの時間に見かける私を見て、「いつも通りだ」と納得されたのだろう。

どうして遅くまで作業をしていたと思ったかと言えば、私がその場を通りかかった時間が確実にいつもより遅かったからだ。

その時に「今、何時くらいですか?」と声をかけて下されば、大体の時間を告げることは出来たのに。それとも追いかけて訂正するべきだったろうか。そのせいで、お2人やご家族の予定が狂うことがあったとすれば、一抹の罪悪感を覚える。相手を泣き笑い、時に傷つき、日々の生活に追われる中で家族との団らんを楽しんだりする「人間」だと認識できていなかったのは私の方ではないか。

今回のことを機に自分のあり方を大いに反省したいと思った。それと同時に、私のご夫婦に対する今までの想定(妄想?)が全くの杞憂であればよいと思う。


(記者:夏菜)

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