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2007年11月02日(金) 15時26分

手話に「気が散る」 夢之助さん発言、通訳への理解は薄いのかツカサネット新聞

島根県安来市で9月に催された敬老会に出演した落語家の三笑亭夢之助さんが、手話通訳者に対して「気が散る」などと発言し、聴覚障害者やその団体から批判を受け、謝罪していたことが分かった。もはや、夢之助さんの言動に対して呆れてコメントする気も失せる。

また、本人は釈明のつもりだったのか「気が散漫になって話を間違えるから、自分の後ろに立つか座ってもらうかしてほしかった」とのコメント。

聴覚障害者の方がどの席に座られていたのかは知らないが、人の後ろに立ってする手話が見えるのであろうか? また、聴覚障害者は決して「通訳者」を見に来たのではない。

落語は言葉の面白さだけではなく、落語家の豊かな表情やまさしく今そこで本当にしているかのような動き、それもまた醍醐味の一つではないのだろうか? だからこそ通訳者は、落語家も同じように目に入るよう隣に立って手話通訳をしたのである。座ってしまえば落語家と通訳者に高低差が発生してしまい、見る者には困難きわまりない。昨今はドラマなどで聴覚障害者に対しての理解も浸透しつつあるが、このような話を聞くとまだまだだと実感させられるのである。

さて、この「通訳」ということ。
よく目にするのは海外のアーティストや俳優が日本のメディアに出演する際に登場する言語通訳。バラエティなどにおいては、相手が日本語が分からないことを良いことにネタにして笑いを誘う。通訳がそれを伝えようとすると「そこまで伝えんでええ!」とつっこみ、更なる笑いが起こる。

この一見なんの意味もないやりとりが、実は「通訳」ということに対しての理解の薄さを露呈している。

通訳とは、伝えたいことのみ通訳する、ということではない。その場で起こった事柄、発せられた言葉、それら全てを相手に伝える事が通訳であり、通訳者自身が「これは伝える、これは伝えない」と選ぶことは許されないのである。通訳者は「主」であってはならないのだ。これらのことを操作することは、人間の「知る」という権利を奪うことにも繋がる。

バラエティであれば、これほど激高することもない。その場の雰囲気、声のトーン、表情などで伺い知ることが出来るし、また分からない方としてある程度の理解を示すことが出来るだろう。それこそ「笑い」で済ませることが出来るのである。

通訳の上記理念から考えると、夢之助師匠の「気が散る」「聞こえる方が大半なのに」「どうなんでしょうかね」こういった発言すら手話で通訳せねばならない。逆にこれらの言葉をどうしても伝えられなければ、通訳としての任を果たせないことに罪悪感を抱くだろう。

手話通訳者の方がどちらを選択されたかは知らないが、どちらにしても苦渋の決断であったことは間違いないだろう。その心の内を思うと胸が締め付けられる思いである。


(記者:さっちん)

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