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2007年11月01日(木) 11時42分

日本の騒音問題に思う〜NZからの一時帰国時からツカサネット新聞

一時帰国時の率直な感想として、日本はうるさい。自分の意図に反して耳に入ってくる音の何と多いことか。

自動販売機が「アリガトウゴザイマス」とお礼を言ってくれる。店のドアが「ピンポン、ピンポン」と来客を迎える。トラックは「バックシマス、ゴチュウイクダサイ」と、わざわざ教えてくれる。公共交通機関の中では、駅と駅との間のわずか3分に「ゴジョウシャアリガトウゴザイマス」に始まって、車内での注意事項だの、近辺の店や見所などを延々と紹介してくれる。そのほとんどが、電子合成音だ。

善意で始められた「サービス」なのだと信じたい。無機質な機械からモノを買うのは味気ないだろう、とか、お客様に「すいませーん」と店の奥まで声を掛けさせる訳にはいかない、とか、事故にならないように、マナー違反が少しでも減るように、観光客が迷わないように…。

そう、サービスは善意だ。そうする方が良くなると思う人がいて、それを実施するだけの財力や技術があってこその賜物だ。そして実際、それに救われた人も多くいるのだろう。子供の頃、住んでいた街の中心部の信号が「ポッポー、ポッポー」と鳴くようになった。祖父が、これで目の見えない人たちも道を渡りやすくなったよ、良かったね、と言った。それを聞いた子供の私は、なんだか、何の関係もない自分までもが何となく、いいことをしたような気分になったのを憶えている。

今、日本中の繁華街で信号は鳴く。そして子供の私のように、「何となくいいことをした気分」になっている人は、どのくらいいるのだろう。実際に街は、視聴覚障害者の人々にとって歩きやすくなったのか。もっと他に解決するべきことが残されているのではないか。「何となくいいことをした気分」は、冷静な問いかけの機運をなくす。そして自転車は歩道に積み上げられて点字ブロックを覆い、立て看板が林立する。

日本は善意に溢れた国。すべての人が困らないように、すべての人が迷わないように。そうして積み上げられる音の壁をうるさく感じてしまう私は、きっと、他の日本人ほどに親切ではないのだろう。でも、例えば日本で車内アナウンスを聞く度に、自分がずいぶん子供扱いされているような気がしてしまうのは、私だけだろうか。私は別に出来た人間ではないが、「ゴジョウシャアリガトウゴザイマス」って、乗る度に言って欲しいと思うほど、客であることにあぐらをかきたいとは思わない。観光に出るのなら、近辺の見所はたぶん自分で調べると思う。車内では、次に止まる駅がどこなのかさえ確実にわかれば、それでいい。

便利さには、人間の能力を奪うという側面もある。例えば、皮むき器が普及した時代に育った私は、包丁でジャガイモの皮を剥くのが苦手だ。では、過度のサービスはどうか。やっぱり、人間から何かを奪いはしないか。サービスの名の下に提供される音の壁を遮るには、自分の耳を塞ぐしかない。耳を塞げば、必要なものも心地よいものも、一様に聞こえなくなる。


(記者:江頭由記)

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