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2007年03月31日(土) 23時16分

濃霧で迂回中に事故? 陸自幹部が見解 ヘリ墜落朝日新聞

 霧の中で、何が起きたのか。鹿児島県・徳之島で30日夜に起きた陸上自衛隊のヘリコプター墜落事故。「視界が悪く、迂回(うかい)地点を間違えたのでは」「計器を使えば飛べるはず」。関係者の間でも様々な見方がある。厳しい医療環境にある離島の急病患者の救命を任務としていた4人。遺族や同僚から早すぎる死を悼む声があがった。

 「ヘリは山に真っすぐ向かっていった。故障したような飛び方ではなかった。方向を間違えたんじゃないか」

 島北部にある山、天城岳(533メートル)の東のふもとから事故を目撃した柳俊文さん(48)はいぶかる。

 ヘリからの最後の交信は「視界不良のため着陸場所を徳之島空港に変更する」だった。島周辺には事故発生の約8時間前から海上濃霧警報が発令されていた。30日午後6時、もやは空港にもかかり、計器飛行に切り替えるレベルの視界だった。

 山腹にぶつかったヘリは、もやのために島南東にある町グラウンドへの着陸をあきらめた後、今度は島北西部の徳之島空港を目指したとみられている。ただ、グラウンドと空港の間の最短距離は東西約16キロなのに、ヘリはこのコースをとらず北に向かった。

 陸上自衛隊のある幹部は「最短距離で飛ぼうとしたが、雲が低くアタマを押さえられた状態だったのではないか。それで海岸線を目印に空港へ向かったが、その時、島の北東端と勘違いして手前で左旋回してしまった。そこに天城岳があった可能性がある」とみる。

 しかし、ヘリの操縦席には全地球測位システム(GPS)が搭載されており、機体の位置は分かるはず。那覇を出た時点で島周辺の悪い視界を把握、着陸地点の変更も織り込んでいた。事故機が所属していた陸自第1混成団(那覇市)の広報は「台風のような暴風下でもなければ運用に支障はないはずだ。機体に問題があったのか、人的なことかを含め今後の調査で原因を明らかにしたい」という。

 一方、航空評論家の青木謙知(よしとも)さんは「計器飛行では、あらかじめ飛行ルートを設定する。だが、極端な場合、飛行の方向が1度違うと、目的地から大きくそれてしまうなどの落とし穴があり、操縦士が地形を加味して飛行することもある。悪天候の夜に緊急飛行をしたことで、飛んでいる地点と周囲の位置関係を正確に把握できなかった可能性もある」と指摘する。

 「急患搬送は人命がかかった任務。多少の悪天候が予想されても機長の判断で飛ぶことがある」

 第1混成団の関係者はこう語る。

 鹿児島県の離島では、ヘリによる急患の輸送はすべて自衛隊頼み。緊急時の命綱ともいえる存在だ。今回、輸送要請を出した徳之島徳洲会病院の小野隆司院長は「急患を運ぶとなれば、陸自はかなり無理をしてでも来てくれているようだ。こちらも、要請を控えることはできない」。事故の背景には、離島の苦しい医療事情もあるという指摘だ。

 離島医療を研究している長崎大学大学院医歯薬学総合研究科の前田隆浩教授によると、離島住民は04年現在で全国に約72万5000人。鹿児島は19万人以上が離島で暮らし、全国で最多だ。前田教授は言う。「この事故でヘリの急患搬送が消極的になることを恐れている」

 ヘリの機長だった建村善知3佐(54)は、墜落した徳之島町の出身。ふるさとの人命を救うための飛行中の事故だった。

 義兄の宮本邦宣さん(71)によると、建村さんは6人兄弟の末っ子で、小学校の途中まで町で過ごした。中学を卒業すると親族の反対を押し切って入隊。その後はパイロット一筋だった。何度も緊急患者の搬送に携わり、「この仕事はやりがいがある」と話していたという。

 奄美市に住む姉の柏田芳江さん(75)によると、建村さんの長男も3月に陸自に入隊した。「息子はおれ以上の隊員になるよ」とうれしそうに話していたという。

 「急患搬送への使命感が強く、操縦技術も確かだった。後進の指導にも熱心で、よく声をかけてもらった」と、第1混成団の後輩も死を悼んだ。総飛行時間4850時間(うちCH47は600時間)の熟練パイロットは7月の定年を控え、4月中旬には現場を離れることになっており、今回のほかに、当番はあと1回を残すだけだった。

http://www.asahi.com/national/update/0331/SEB200703310015.html