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2007年03月29日(木) 00時00分

トンネルじん肺 勝訴判決朝日新聞

◆ 全員救済 天国に届け 

 川原義春、切塚賢市、栗尾治……。開廷と同時に、阿部正幸裁判長は原告の名前を読み上げだした。26人を一人ひとり確かめるように、ゆっくりと。そして「全員に対して一律220万円の支払いを命じる」。提訴から3年半。トンネル工事労働者らの訴えは28日、全面的に認められた。だが、4人は判決を待たずに亡くなった。治ることのない病におびえながら暮らす存命の原告22人の平均年齢は70歳を超えた。

 裁判長の言葉を、原告らは目を閉じて聞いた。うつむいている人、まっすぐ前を向く人。主文言い渡し直後の一時休廷に入った瞬間、「正しい道が開けた」と声が上がった。

 判決要旨を読み終え、裁判官が退廷すると、法廷内には大きな拍手がわき起こった。「名前を読み上げてくれたのは、一人ひとりを大切にしてくれた証しだと感じた。全員を救済するという裁判長の意思が伝わった」。傍聴席のあちこちで握手が交わされた。

 その輪の中にいた美馬市の会社員、藤田富夫さん(59)は、遺影を持ってやってきた。父の義信さんは、原告の一人だったが、提訴から9カ月後の04年6月、80歳で亡くなった。「今朝、仏壇に手を合わせて来ました」

 そして、全面勝訴。富夫さんは「オヤジの思いが認められた。うれしい」とかみしめるように話した。

 父は36歳からトンネル工事に従事した。家業の農家が暇になると、「わしには取りえがないけん。一生懸命働くしかないけんな」と、京都、滋賀まで出稼ぎに行った。

 ダイナマイトで岩を砕く。削岩機で穴を掘り進める。仕事熱心で、いつも先頭で働いていた。だが、現場では、粉じんが舞い上がるのを防ぐ水まきすらしていなかった。

 60歳を過ぎ、体の異常を感じ始めた。息切れが激しく、せきやたんが止まらない。70歳の時、風邪をこじらせて入院。レントゲン写真を見た医師から「肺が粘土で覆われたようになっています。心当たりはありますか」といわれた。父は初めて、自分がじん肺だと知った。

 トイレから戻ってくるだけでも、息が乱れ、整えるのに数分かかるようになった。それでも、弱音を吐くことなく、畑仕事を手伝おうとした。亡くなる直前、初めて「せこい(つらい)」と口にした。富夫さんは、その時の父の顔が忘れられない。「症状が悪化し、生きがいをなくしたようだった。死ぬまで働こうとするような人だった」

 法廷から出てきた原告の一人、中本春好さん(80)=美馬市穴吹町=は、満開を迎えた徳島地裁の桜を見上げてつぶやいた。「勝てたのはうれしい。でも、体は変わらない。複雑な心境です。どうして、自分だけ花見にも行けないんだろう」

 労災認定は60歳を過ぎた88年8月。寒暖の差が激しい場所に行くとせき込むため、外出はできるだけ控える毎日だ。

 新幹線やダムなどの工事現場で45年近く働いた。「トンネルを作ったことに誇りを持って生きてきた。家族を養っていくため、募集があればどこにでも行ったよ」と振り返る。苦労をかけ、誰よりも体のことを心配してくれた妻シゲカさん(享年75)は昨年6月に亡くなった。「国がもっと早く責任を認めていれば……。本当にムダな時間だった」。帰宅後、仏壇に勝訴を報告した。

 「じん肺に時効なんてない。おれたち三好土工(どっこ)は、みんな必死で働いた。その結果がじん肺なんだ」。原告団副団長の原田勝さん(76)=東みよし町=は涙を流した。

 「仕事はきついし、家族とは一緒に暮らせない。大変な毎日だった」。でもみんな、高い金をもらって当然の腕と誇りは持っていた。「じん肺の苦しみはみんな同じ。全員の訴えが認められて本当によかった」

 判決後、原告団は、地裁近くの徳島市中央公民館で、報告集会を開いた。全国の原告団や支援者ら約150人も集まった。

 平松国夫団長(68)は「全国の原告団の勝利でもある。じん肺の根絶は患者全員の切実な願いだ」と呼びかけた。林伸豪・弁護団長は「4度にわたって、国の無責任さが認められたことは画期的だ。国は判決を重く受け止め、いたずらに控訴して、引き延ばすことはやめてほしい」。

 30日に判決を控えた松山訴訟の黒川三郎原告団長は「天国から、息が苦しい、空気が吸えないと、亡くなった人たちの無念の叫び声が聞こえてくるような気がする。裁判長はその声を聞いてくれた。素晴らしい判決だ」と喜んだ。

 「徳島判決を国に突き付けて行動していきたい」との声が相次いだ。集会後、原告団は、県、徳島労働局、国交省徳島河川国道事務所を訪れ、判決内容を伝え、対策を徹底するよう求めた。

 さらに、一部の原告は超党派の国会議員に厚労省への働きかけを要請するため、東京の衆院議員会館に向かった。その一人、徳島原告団事務局長の山田正行さん(58)は「全員勝訴の判決で、全国の仲間に恩返しできる。胸を張って報告したい」と笑顔を見せた。

■■トンネルじん肺徳島訴訟の原告団■■

  氏名  年齢 労働期間(西暦年/月)
川原 義春 (64)  71/1〜78/12
切塚 賢市 (71)  69/5〜76/12
栗尾 治  (66)  63/7〜79/10
栗尾奈良夫 (74)  68/1〜81/10
下内 勇  (65)  59/5〜96/5
竹田 秀雄 (70)  68/7〜73/9
露口 才一 享年80  57/10〜82/12
中本 春好 (80)  55/10〜85/1
西浦 吉明 (75)  54/9〜75/9
西分 昇  (64)  61/1〜79/7
原田 勝  (76)  66/12〜80/4
藤田 義信 享年80  60/7〜70/2
宮本 広行 享年68  60/4〜91/4
山下 啓之 (70)  74/8〜92/12
浦  岩雄 (73)  60/5〜75/10
大塚 義治 (65)  65/3〜70/5
川添登志文 (72)  66/6〜68/2
鈴木 昇  (73)  53/1〜64/1
武内 昭男 (75)  49/4〜67/12
立道 宗重 享年60  61/9〜67/4
富田 義男 (68)  55/10〜61/12
中恵 忠夫 (72)  67/9〜96/12
平松 国夫 (68)  58/6〜72/10
山田 正行 (58)  66/6〜00/7
下西 正  (82)  61/10〜68/4
高岡 満  (78)  65/2〜84/3
(敬称略)

◆ 「集団訴訟」の先駆け

 徳島はトンネルじん肺訴訟の発祥の地ともいわれる。60年代以降、高い技術力を買われトンネル建設現場を駆け回った県西部の労働者たちは「三好土工(どっこ)」と呼ばれ、高度成長期の列島各地で活躍した。そして、次々とじん肺に倒れた。89年、彼らは四国各地の同じような境遇の元労働者たちと団結、「雇い主」だったゼネコンなどを相手取った「四国じん肺訴訟」が始まった。

 (佐々木洋輔)

 その後、同様の訴訟は全国に波及し「全国じん肺訴訟」に発展。01年、東京地裁での和解を機に、じん肺だと証明されれば、補償金を受け取れる仕組みが出来た。

 この時、すでに亡くなっていた患者も多かった。「目的はトンネル工事現場からじん肺をなくすこと」。生き残った原告らは02年、国の責任を追及するために「根絶訴訟」に踏み切った。

 国はこれまで、じん肺の患者数が近年、激減しているとして、「時代に応じ、科学的な知見に基づいた対応をしてきた」との主張を続けてきた。しかし、じん肺の潜伏期間は2〜30年と長く、退職後の発症者も多い。定期健診以外でじん肺とされた人もあわせると、発症者は05年だけで140人以上に上る。トンネル建設現場では今なお、約3千人の労働者が粉じんにさらされているという。

■■トンネルじん肺訴訟(主に徳島)の流れ■■

89年3月27日 「四国じん肺訴訟」開始。徳島地裁へはゼネコンなど38社を相手取り34人が提訴
90年6月1日 2次提訴。原告11人が新たに加わる
96年3月27日 徳島訴訟の原告45人の和解が成立。総額約6億8500万円。提訴からの間、原告13人が死亡
97年5月19日 「全国じん肺訴訟」開始。ゼネコンなど41社と鉄建公団を相手取り、新たに23人が徳島地裁に提訴。以降、全国23地裁に波及
01年2月15日 東京地裁で和解成立。ゼネコンなどから1人あたり2200万〜900万円の和解金。補償の枠組みを確立
02年11月22日 東京地裁に国の責任を求め46人が提訴。「根絶訴訟」開始
03年9月24日 根絶訴訟で徳島地裁に26人が提訴
04年10月15日 「徳島根絶訴訟」に原告2人が加わる
07年3月28日 徳島地裁判決。原告全面勝訴

http://mytown.asahi.com/tokushima/news.php?k_id=37000000703290002