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2007年03月28日(水) 00時00分

植木さんスーダラ節で芸能界に革命朝日新聞

 27日、植木等さんの死は芸能界に大きな衝撃を与えた。しかし、都内の自宅前は衝撃の大きさに反比例するように、ひっそり静まり返った。所属事務所の渡辺プロダクションは通夜・葬儀は密葬で行いたいという故人の遺志を貫くよう、マスコミ各社の取材を断った。同プロとともに芸能界発展の最大の功労者に報いるための、異例の措置だった。

 植木等さんの死去は、一般のファンのみならず、芸能界にとっても大きな衝撃だった。縁の深いクレージーキャッツの盟友・谷や桜井センリ(77)所属事務所の渡辺美佐会長(78)らがショックのあまりにコメントを出せないほどだった。

 所属のワタナベエンターテインメントは、マスコミ各社にファクスで訃報と、植木さんの最後の様子を伝えたが、自宅取材などに対しては、取材規制を敷いた。「故人の遺志を最大限尊重致したい」と理由を説明した。数々の有名タレントが、同社を辞めていった中、最後まで筋を通して籍を置き続けた。関係者は「植木さんが居続けてくれたことは、我々の最大の支えであり励みでした」と明かす。取材規制は、義理堅かった植木さんに送る最後の恩返しだった。

 植木さんの芸能界への功績は、単なる「昭和の人気スター」というだけでは収まりきらない。故渡辺晋会長とともに、61年の「スーダラ節」発売で、芸能音楽に革命をもたらした。それまでレコード会社が所有していた原盤権を、芸能プロダクション側に帰属させた記念すべき1枚だった。これにより、歌手やフリーの作詞・作曲家が、作りたい音楽を自由に制作できるシステムが構築。さらに、芸能プロダクション業が、仲介業から知的財産業に発展した。音楽分野の幅が広がり、さまざまな才能、タレントを発掘できる素地が整ったのだ。

 SMAPが「現代のクレージーキャッツ」と称されることがある。アイドル歌手の枠にとどまらず、ドラマや映画、さらにはお笑いや司会業と、活躍の場を無限大に広げる姿は、50年から60年代の「クレージー−」に通じるものがある。今の日本芸能ビジネスをつくり上げた先駆者こそ植木さんたちだった。

http://www.asahi.com/culture/news_entertainment/NIK200703280009.html