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2007年03月24日(土) 00時00分

中国残留孤児の21年/北風吹いて(上)朝日新聞

 徳島県に住む中国残留孤児4人が国に損害賠償を求めた訴訟の判決が徳島地裁で言い渡された23日、傍聴席には、同様の訴訟を岡山地裁に起こしている香川県原告団(8人)の団長、山口康江さん(66)もいた。請求棄却の判決にため息が漏れるのを聞いて、「負けたのか」と察して目を伏せた。
 法廷を出た山口さんは取材に対し、「国に責任がないなら、誰の責任でわたしたち孤児が生まれたのか。教えてほしい」。1986年、41年ぶりに日本に帰国してから21年間、問い続けている疑問への答えは、この日も見つからなかった。
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 山口さんは高松市牟礼町の小高い丘にある県営住宅で暮らす。「1人だとやっぱり寂しいな」。2月下旬のある日、衛星放送で流れる中国の歌謡番組を見ながら、手作りの肉まんじゅうを食べてつぶやいた。
 永住帰国したときは大家族だった。だが、中国人の夫は日本になじめず2年で中国に戻り、7年前に亡くなった。一家を支えてきた長男も4年前、肝炎のため42歳で他界した。次男、三男はそれぞれ家庭を持ち、県内に暮らす。長女の一家と数年前まで一緒に暮らしていたが、中国人の夫の転勤のため日本を離れた。
 1940年、香川県西部で生まれた。4歳の時に家族や親類合わせて12人で、旧満州(中国東北部)に開拓団として渡る。旧ソ連の侵攻から逃げる途中に両親を失い、トウモロコシ畑に身を潜めているところを中国人の養父に保護された。
 養父母は「可哀想で可愛かったから、お前を育てると決めた」と話していた。幼いころから歌が上手で、養父は酒を飲むたび「つまみはないけど、お前の歌がある」と言い、ひざに乗せてくれた。貧しかったが、大切に育てられたと思う。
 8歳の頃、「なぜ敵だった日本人の子どもを育てるのか」と近所の人に養父が殴られるのを見て、自分は中国で生きていてはいけないように感じた。18歳で結婚。同居する義母には日本人だからと嫌われた。近所の人と話すのを禁じられ、たたかれることもあった。
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 義母が亡くなり、夫を説得して永住帰国を果たしたとき、もう46歳だった。日本語を学んだのは大阪の中国帰国者定着促進センターでの4カ月間だけ。平仮名を紙に書いて覚えるのがやっとの状態。それでも香川に戻って仕事を始め、学校給食センターや食品加工場で12年間必死に働いた。98年に退職し、今は肝炎や神経痛の治療のため、病院に通う日々。唯一の収入は月約7万円の年金で、その多くが治療費にかかる。
 団地に友人はいない。日本語で自分の思いは最低限伝えられるが、相手の話は半分以上分からない。「言葉が通じんと、気持ちも通じんよ」。子どもたちがお金を出し合って契約してくれた衛星放送で、中国のテレビ番組を見て過ごす。月に1回ほど、同じ原告の仲間と街に出て裁判への理解を呼びかけるビラを配っている。寂しさがまぎれるので、楽しみだ。
 自宅に戻るとまた寂しさが募り、自然と歌を口ずさむ。「北風那個吹(北風があんなにも吹き)、雪花児那個飄(雪があんなにも舞う)……」。寂しげなメロディーは、中国の歌劇「白毛女」の中で歌われる「北風吹(北風吹いて)」だ。中国でつらいことがあるとオンドルの掃除をしながら1人で口ずさんだ曲。日本に帰国してからも、何度歌ったことだろう。自分の幸せはどこにあるのか。それも、まだ分からない。
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 永住帰国した中国残留孤児約2500人のうち、9割の約2200人が国家賠償訴訟を起こしている。山口さんの半生をたどり、県内に暮らす孤児たちをたずね、残留孤児問題の今を考えた。

http://mytown.asahi.com/kagawa/news.php?k_id=38000000703240003