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2007年03月11日(日) 00時00分

薄れる惨禍の記憶 語り継ぐ慰霊の日読売新聞

東京大空襲62年

 米軍爆撃機から投下された大量の焼夷(しょうい)弾によって、ひと晩で約10万人もの命が失われた東京大空襲(1945年3月10日)から、10日で62年がたった。都内各地で開かれた追悼式では、遺族らが亡くなった犠牲者をしのんだ。一方、戦禍をくぐり抜けた人たちが年々少なくなる中、被災者らは、戦争の悲惨さを懸命に語り、戦後世代にとっても平和の尊さを改めて考える1日となった。

 墨田区の亀沢四丁目町会では夕方から、手作りのぼんぼり約650個を、民家の玄関前や路上など、町中に並べ犠牲者を慰霊。家族連れや子どもたちが、ぼんぼり近くで興味深そうに足を止めた。

 ぼんぼりは、市販の大型封筒を防炎処理して使用し、表側はお地蔵さんがにこやかにほほえむ表情に切り取った。裏側には「忘れてはいけない」「世界中の子どもに笑顔を」などと平和を祈るメッセージが書かれた。町会長の飯沼清さん(57)は「次代を担う子どもたちにも、平和への思いを引き継いでもらいたい」としみじみと語っていた。

■各地で式典■

 墨田区の都慰霊堂では、犠牲者を弔う大法要の後も、焼香に訪れる人は途切れなかった。

 墨田区石原で両親と兄弟4人を失った神奈川県伊勢原市の高松薫さん(73)「集団疎開先に、親がいつまでも迎えに来ないので、布団の中で泣いた。寂しさとむなしさでいっぱいだった。家族がどう逃げて、どこで亡くなったのか。それを知りたいと、ずっと思い続けた62年だった」

 母(63)方の祖父が大空襲で亡くなったという江東区の食品製造業、松井啓一さん(35)「初めての参列。祖父の遺骨は見つかっていない。猛火に追われ、多くの人が川に飛び込み、命を落としたという空襲の悲劇を、我々若い世代も知らなくてはならない」

     ◇

 台東区では、言問橋近くの隅田公園内にある戦災慰霊碑前で、追悼集会が開かれた。

 62年ぶりに訪れた埼玉県草加市の野口昌克さん(80)「大空襲時、新橋にいた。すぐこちらへ駆け付け、区内に住んでいた家族の無事を確認し、遺体片づけの仕事に加わった。仏様の上を踏んでいるような気がして落ち着かない。山積みにされたなきがらが目に浮かんできた」

 空襲で生き残った大田区の中川文子さん(79)「江東区に父と二人で住んでいたが、別々に逃げて亀戸駅付近でばったりと会った。もう疲れ切っていて、目の前で火だるまになった人を見ても悲しいと感じないくらいだった。忘れられない悲惨な出来事で、生き延びた一人として平和を守っていきたい」

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 江戸川区では、小松川さくらホール(小松川3)で犠牲者追悼式が行われ、小中高校生がこれまで学んできた戦争に関する感想を発表した。

 家族で千羽鶴を折って持参した区立平井第二小6年の岩渕里沙さん(12)「昨年初めて追悼式に参加し、戦争について勉強した。当時の悲惨さは簡単に想像できないが、戦争を繰り返して欲しくないという願いを込め、千羽鶴を折った」

 東京での追悼式に初めて参加した区立小松川第一中2年の阪本玲以さん(13)「小学4年まで広島に住んでいたので原爆の被害は知っていたが、この場所が、大空襲で焼け野原になったことは最近知った。今の街の姿からは信じられない」

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 江東区のカメリアプラザ(亀戸2)では、「東京大空襲を語り継ぐつどい」が開かれた。

 8歳のときに亀戸で被災した二瓶治代さん(70)「猛火の渦に吸い込まれ必死に走り抜け、黒こげの死体の下敷きになって気を失った。この体験をいつまでも伝えたい」

 講演した作家の井上ひさしさん(72)「戦争に正義も大義もありません」

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 調布市西部公民館(上石原3)では、調布で空襲を体験した被災者による講演が行われた。

 講師を務めた「調布市戦時記録保存会」代表の岩崎清吾さん(74)「東京大空襲の時、甲州街道に出てみると、東側の空があかね色に染まっていた。その時、もう戦争も終わりだなと感じた。自分の命を大切にすれば、人の命を大事にする気持ちも芽生える」

 講演を聞いた大学生、米村和彦さん(23)「調布で空襲があったことは全く知らなかった。経験のない私たちが戦争の痛みを伝えることは難しいが、語り継ぐ大切さを考えていきたい」

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news001.htm