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2007年03月11日(日) 00時00分

イラク開戦から4年 脱出市民が語る首都 100人のサダムがいる 東京新聞

 イラク戦争開戦から間もなく四年。首都バグダッドでは開戦以来、米軍とイラク軍による最大規模の掃討作戦が展開されているが、事態好転の兆しはない。むしろ、昨年来のシーア派、スンニ派の「内戦」は首都を地獄絵図に沈めた。その渦中、一人の市民が隣国ヨルダンのアンマンに脱出してきた。「あのサダムがいまは百人いる」。彼が語るバグダッドの現実とは−。  (アンマンで、田原拓治)

 自動車のバックミラーをのぞく。誰かがつけていないか。今日は記者会見に出た。自分の姿はテレビに映っていなかったはずだ。勤め先が外国通信社だと近所に知られたくない。敵(米国)の内通者と思われる。目の前に検問所がある。米兵なら嫌がらせだけですむが、シーア派の警察官らだと運が悪ければ、自分も「行方不明」にされる…。

 これがバグダッドにいたときのアハマド・ナビール氏(仮名)の帰宅風景だった。彼はクルド人だが、バグダッド生まれのスンニ派で四十歳。七歳と五歳の子どもを持つ。首都のチグリス川東岸、シーア派住民が多数を占める新バグダッド地区で暮らしていた。

 家に着くまで不安が絶えない。雑貨商だったいとこのことを思い出す。最近、北部の親類を頼って転居した。「去れ。さもないと殺す」。そう記された無署名の脅迫状が店のシャッターに挟まれていたからだ。

 こうした状況になったのは昨年二月からだ。イラク西部の旧都サマラのシーア派寺院が爆破され、シーア派武装勢力によるスンニ派狩りと、スンニ派による報復が一気に白熱化した。

 かつては夕方に帰宅すれば、それから妻子と散歩した。だが、事件後は鍵を下ろして閉じこもった。子どもの通学には妻が送り迎えしたが、一度帰宅すれば、決して外では遊ばせない。

■同僚は誘拐され行方も分からず

 ナビール氏はそんな日常に疲れ果て昨秋、妻子とともに隣国に脱出した。直接の契機は昨夏、勤務先の同僚が帰宅途中、誘拐されたためだ。現在も行方は知れない。同僚の家族は中央死体安置所に連日通った。そこには数百の身元不明遺体がコンピューターに記録されている。探り続けた。

 気がかりは両親と小さなレストランを営む兄だ。彼らはバグダッドに残っている。「本当はともに来たかった。でも、借家だった自分と違い、両親と兄は持ち家。家を空けるとシーア派に接収されてしまう」

 共通の友人でスンニ派のジアード氏の話が出た。彼も家をなくしたという。「ジアードは数週間、旅に出ていた。帰ると、シーア派の別人が住んでいた。別人は新政府発行の登記簿を示したという。裁判になったが、ジアードの旧政府の登記簿は無効とされた」

 かすかな救いはナビール氏の一族がクルド人だという点だ。シーア派とクルド人はともに新政府を担う主役で友好関係にある。一方で、宗教的にはスンニ派のため、スンニ派の抵抗勢力にも狙われにくい。

 「でも、近所の理髪店でスンニ派の奴(やつ)らをどうやって殺そうか、と語りかけられて冷や汗が流れたこともあった。相手は自分を同じシーア派だと信じていた」

■最大の失策は米の旧軍排除

 イラクは戦前、アラブ世界の中でも最も非宗教的な国の一つだった。首都では両派の夫婦も珍しくはなかった。何が人々の心に狂気を芽生えさせたのか。

 その過程をナビール氏はこう振り返る。「昨年二月前でも、爆弾テロは頻繁にあった。でも、人々は宗派に関係なく、テロ自体を非難した。ところが、最近は証拠がなくても両派の住民はお互いに罪を被(かぶ)せる」

 一つの要因はテレビにあるという。現在、イラクでは各派が自前の衛星放送を持つ。住民は自分の支持する政治集団の放送を見続ける。一種の“洗脳”だ。

 さらに宗派色を濃くさせたのは就職だ。保健省がシーア派最大のムクタダ・サドル一派の支配下にあるように、各省庁とも各宗派や政治集団の傘下にある。その宗派と無縁な者が勤めることは無理な状況だ。それが民間ならなおさらだ。

 もちろん、宗派の線引きを嫌い「イラクは一つ」と考える人も少なくない。別々の宗派による夫婦も子どものために耐えている。

 だが、非宗教的な外国通信社の職場ですら、最近では爆弾事件のたび、現地スタッフの間で互いの宗派の仕業と言い立て、ののしり合うようになったという。

■内部複雑な両派 一枚岩ほど遠く

 複雑なのは、政治的には両派とも一枚岩ではない点だ。シーア派では(1)イラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)(2)アッダワ党(3)サドル一派の三派が力を持つが、現在はマリキ首相が属し、サドル師の祖父が指導者だったアッダワ党とサドル一派が共闘する。

 このうち、かつてはスンニ派抵抗勢力と共闘していたサドル一派が二月の事件後、反スンニ派へと「転向」。これが内戦状況を招いた。最大勢力のこの一派は亡命組の二派とは違い土着的だが、貧しくかつ直情径行的な青年たちが多い。

 内務省はSCIRI傘下だったが「現在はパトカーにサドル師の写真が張られているように、現場の警官たちはサドル一派でSCIRIの統制は無視。サドル師自身の統制も徹底されていない」(ナビール氏)。

 米国の主張する「イランの暗躍」も街ではうわさされるが、ナビール氏は「首都ではイラン人は見かけない」という。サドル師はイラン人の法学者(聖職者)を宗教的な権威としているが、イラン指導部との関係は歴史的に微妙で「面従腹背」の様相が色濃い。

 スンニ派抵抗勢力はより複雑だ。現在まで、現政府や米国と抵抗勢力の秘密交渉が何回か報じられた。だが、ナビール氏は「(旧政権党の)バース党、土着部族、アルカイダ系と傾向はさまざま。数十はあるスンニ派抵抗勢力のいくつかが交渉しても、何の意味もない」と苦笑する。同時に、こうした各派は人脈的にも結びついているという。

 「最大の失策は、米国が占領初期に五十万人はいた旧軍を排除した点だ。食い詰めた軍人の大半が抵抗勢力に参加したり、スンニ派居住区のイラク西部にあった複数の武器庫から武器弾薬を盗み、ヤミ市場に流した。その結果、収拾がつかなくなってしまった」

 米ブッシュ政権は米軍増派を掲げ、現在も力でイラクの「治安回復」を図るという。しかし、ナビール氏は「政治解決抜きには無意味。力では警官や治安部隊を装ったシーア派民兵もスンニ派抵抗勢力も一掃できない。となれば、民兵をどう解体し、スンニ派をいかに権力に取り込むかしか選択肢はない」と言い切る。

 同氏の携帯電話が突然、鳴った。兄から近くで爆弾テロがあったが、家族は皆無事という連絡だった。

 「いま、首都では『蚊ですら(米軍司令部や政府の首脳がいる安全な)グリーンゾーンから出ない』という冗談が語られている」とナビール氏は皮肉った。

 「サダムの時代が懐かしい。あのころはバース党とサダムさえ恐れてさえいればよかった。いまは百のサダムがいる状態なのだ」

<デスクメモ> 敵への憎悪が味方への疑心暗鬼を招き、疑心暗鬼が憎悪をかきたてる。なんともやるせない。だが、宗教対立の激しい国の話だと、笑っていられようか。弱肉強食の行き着く先は、弱者同士がいがみ合い、密告し、強者がほくそえむ社会だ。わが国だって既に、そんな構図に片足を突っ込んでいやしないか。 (隆)


http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20070311/mng_____tokuho__000.shtml