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2003年09月24日(水) 00時00分

『私の人生返して』 優生保護法 被害者の訴え 東京新聞

 「優生保護法」が母体保護法に変更されたのはわずか七年前だ。一九四八年に制定されて以来、「不良な血を残すな」という名目で約一万六千五百人が不妊手術を強制された。同じ九六年に廃止された「らい予防法」では一昨年、被害者たちへの国の謝罪と補償が認められた。だが、優生手術の被害者には、社会の偏見と時の流れによる風化がいまも重くのしかかっている。 (田原拓治)

 たしか、秋晴れの日だった。行き先も告げず、「ついておいで」とのみ言う住み込み先の「奥さま」とその家の幼稚園児の娘とともに飯塚淳子さん(57)=仮名=は仙台市内のある橋を渡った。六三年ごろ、十七歳だったと記憶している。

 橋のたもとには小さな公園があり、ベンチでにぎり飯を食べさせられた。公園の前には平屋の白い建物があった。やがてそこに入れと言われた。三、四人の同世代の女性に交じり、久々に見る父親の姿があった。

 ■行き先知らず突然手術台に

 奥さま、父親とも何も言わなかった。やがて医師が手術台を指さし、寝るように命じた。何のためかは告げられなかった。注射され、後は覚えていない。開腹手術で抜糸までの約一週間、入院した。「子どもが産めない体」になったと初めて知ったのは、退院して間もなく、両親の会話をふと耳に挟んだときだった。

 飯塚さんは七人姉弟の長女として宮城県の農村で生まれた。幼少のとき、火事で引っ越した。父親は病弱で生活保護を受け、彼女は母親の行商を手伝った。

 両親の夫婦仲は悪く、父親は近くの民生委員の一族と懇意で、その民生委員は母親を嫌った。その憎悪は娘にも向けられた。

 中学二年の時、民生委員の福祉事務所への「御注進」で児童相談所で知能検査を受けさせられた。すぐに仙台市内の全寮制養護学校へ。卒業後、住み込みで家政婦として雇われた。

 「おまえはバカだ」。事あるごとに奥さまにののしられたという。着たきりすずめの生活も嫌だった。ある晩、飯塚さんは逃げ出した。が、お金もなく、すぐ捕まった。その直後、「宮城県精神薄弱者更生相談所」(当時)に連れられた。

 記録が残っていた。「身体的異常認めず」「礼儀、対人態度は良好」の後に「軽症の魯鈍(ろどん)」。最後に「優生手術の必要」と記されていた。手術はその後、間もなくだった。

 手術の法的根拠は旧優生保護法にあった。同法は堕胎罪が残るなか、人工妊娠中絶を認め、女性の産む、産まない権利を守った点で歴史的にも評価された。

 ■体拘束に加え騙しも国認め

 半面、第一条には「不良な子孫の出生を防止する」とあり、一部の遺伝性の病気や「遺伝性のもの以外の精神病または精神薄弱」の人に対しては、医師の診断と都道府県の優生保護審査会の審査を経たうえで強制不妊手術を定めていた。五三年の厚生省(現厚生労働省)通達では、この強制手術の手段として身体拘束、麻酔薬に加え「欺罔(ぎもう)」つまり騙(だま)すことすら認めていた。

 ただ、後に飯塚さんの中学二年の時の担任は彼女への私信にこう書いている。

 「あなたがいわゆる『知恵遅れ』だったという記憶はない」「民生委員が積極的にことを運ばれた記憶が強く残っている」「養護学校は創立されたばかりで活動が期待されていた」

 不妊手術の承諾に印鑑を押した父親は九八年に亡くなったが、死の直前、飯塚さんにこう書き残した。
 「民生委員と職親(住み込み先)から至急(優生)手術をするため印鑑を押せと責めたてられ、やむなく印鑑を押したのです」

 ■過去を話せず3回の離婚も

 手術をした宮城県中央優生保護相談所付属診療所は六二年に開設され、七二年に閉鎖されているが、行政関係者の一人は「当時は開設したばかりで、慎重というより実績を挙げる面を重んじていた」と漏らした。

 飯塚さんは「手術には住み込み先を逃げた懲罰のような意味もあった」と推測するが、民生委員はすでに他界し、職親の家族も「すでに高齢で記憶が定かではない」と取材を拒んだ。

 飯塚さんはその後、三回の離婚を繰り返したが、いずれも夫には自分の過去を告げられず、子どもができないことに悩んだ。現在は同県内で独り暮らしだ。

 九七年ごろ、女性の自助グループと出会い、初めて自分の過去を明かし、その後、手術についての情報開示を求めた。しかし、県優生保護審査会の記録は六三年度分については、すでに保存されていなかった。

 優生手術は日本に限らない。ドイツではナチス政権下の三三年に制定された「断種法」に基づき、約三十五万人に強制され、別に十万人の障害者が収容所で殺された。スウェーデンでも七六年まで続き、約一万人が犠牲になった。

 ただ、ドイツでは八四年から、スウェーデンでも九九年から被害者への公的補償が始まった。国連人権委員会は九八年十一月、日本政府に強制不妊対象者への補償を勧告している。

 一方、五〇年代に薬による完治が分かりながら、その後も「らい予防法」により九六年の法廃止まで隔離政策を強いられたハンセン病患者の場合、二〇〇一年五月の熊本地裁判決は国に謝罪と補償を命じた。

 しかし、優生手術の被害者について、厚労省母子保健課は「九六年まで適法であった以上、それ以前にさかのぼり補償することは難しい。実態調査についてもその予定はない」と門前払いの構えを崩していない。

 ■日本での手術戦後に本格化

 飯塚さんのようなケースに加え、優生保護法は本人同意を条件にハンセン病患者も不妊手術の対象にしており「施設内結婚の条件」といった半強制の形で、六五年までに千四百人以上が手術を受けさせられた。

 また、「障害者が出産、子育てなどすべきでない」という考えや生理の処理が自分でできないことなどを理由に、最近まで脳性まひの患者らには生殖器の摘出を禁じた旧優生保護法にすら抵触する形で、子宮摘出手術や卵巣への放射線照射が実施されてきた。

 東大大学院総合文化研究科の市野川容孝助教授(国際社会科学)は「ナチスの優生学的な強制不妊手術は誰もが最悪の障害者差別と認める。だが、日本での手術は戦後、本格化した。この事実を知らない人があまりに多い」と語る。

 「被害者にとって強制不妊手術はそれ自体が屈辱で誰にも打ち明けられず、孤立している場合が多い。ハンセン病者の方々に遅すぎた国家賠償が整えられたが、政府はその枠を広げ、優生保護法の被害者にも補償を行うべきだ」

 しかし、最近「優生保護法が犯した罪」(現代書館刊)を出版した「優生手術に対する謝罪を求める会」のメンバー大橋由香子さんは「社会的偏見から名乗り出る被害者が少ないうえ、時間の経過が調査の壁になっている」と顔を曇らす。

 飯塚さんはこう訴えた。

 「親が印鑑を押したが、積極的でなかった点が唯一の救い。でも、なぜ国はこんな法をつくったのか。負い目を引きずって、長い月日がたってしまった。私の人生を返してほしい」


http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20030924/mng_____tokuho__000.shtml